2019年12月27日私たち(『群星』編集委員及びニッケイ新聞有馬亜季子記者)は、具志堅古次郎家の親族具志堅明氏(沖縄県人会カショエイラ支部長、建築構造設計士)の案内でサンパウロ市カショエイラ在の具志堅マリオ幸男氏宅を訪問した。
この訪問の直接の契機は、同月8日に開催された県人会主催の首里城火災資金支援集会の席上で久しぶりにお会いした同氏に『群星』第5号を贈呈した際にサントス強制立ち退き事件で追われた自分の叔父古次郎家の人々のことが語られた。私は驚きと共に早速ご子息の皆さんとお会いできる日程調整を明氏にお願いした次第である。
さて、席上には長男マリオ、長女トヨ、次女トミ、三女光子、四男ジョゼーの各皆さんの外、多くの親族の皆さんがご参加下さった。古次郎・キヨ夫妻は既に物故されており、私たちの証言調査は、前記4人の現在も元気な子弟の方々の聞き取りとして行われた。
ちなみに古次郎・キヨ家は、聖州奥地を転々と生活再建の苦難の日々を経て聖市カショエイラに定着し、男子6名女子3名の子宝に恵まれた大家族となって今日に至っている。
強制立ち退きの衝撃――「父母はポロポロ悔し涙を流していた」
具志堅古次郎・キヨは、結婚間もなく1934年10月22日にアリゾナ丸でサントス港に上陸して、当初は聖州奥地クワターで農業を志す予定でいたがサントスに居住を定め、商業で身を立てるべくパステル業をはじめた。
航海中にひどい悪阻(つわり)で苦しんだキヨが翌年4月12日に長女トヨを無事に出産し、古
次郎家はブラジルでの新たな生活の気概に燃えた。家業のパステル売りも順調で生活も安定し、住居も港近くの Rua Luiza Macaco 15に定め、1937年には次女トミが、39年には三女光子、そして42年には長男マリオが誕生し、家業のパステル業も手広く営業して増々繁盛していた。
長女トヨが語るところによれば、「住宅も繁華街に大きく構え、販売用リヤカーを7台も所有していた」という。次女トミの記憶では、「そのころの自分たちにとって一番の楽しみは、毎年街の中を練り歩いて行われていたカーニバルのデスフィーレを父母が買い揃えてくれた衣服で着飾り、お化粧して家の前で観覧することでした」し、「ひもじい思いをしたことはなかった」という。子供たちは何不自由ない生活を送っていた。
ところが、1943年7月8日に突然発令されたサントス沿岸一帯の日・独移民にたいする「24時間以内強制退去命令」は、具志堅古次郎家に大きな衝撃を与えた。その日家族は皆家にいた。8歳になったばかりのトヨは、「家中が騒いでいましたが、父と母は荷造りをしながら、ずっとポロポロと泣いていたことを覚えている」という。
また6歳のトミは、「ムダンサ(家移り)は楽しいことなのにどうしてオトーたちは泣いているのか不思議であった」という。また「日本人の従業員やブラジル人たちが2階に上がったり下りたり慌ただしくして父と話していましたが、それは隠れて聞いている日本語放送をオトーに伝えているとのことでした。当時の私にはオトーたちがポロポロ泣いている涙の意味も分かりませんでしたが、それはきっと悔し涙であったと思います」と語った。
古次郎とキヨは、住宅と家財道具の一切の管理を親しい隣人のブラジル人に頼み、両手に大きな包みを持ち、キヨは長男マリオをおぶり両手にトミと光子の手を握り、トヨは両手に風呂敷包みを持ってサントス駅へと向かった。
しかしトヨには「荷が重く引きずりながら駅まで歩いた」という。「駅には多くの人々がいたが、父と母は駅に着いても寂しそうに涙を流していた。やがて満員の汽車に乗せられ、行き先はわからなかったが大きな建物に連れて行かれた」とトヨは語る。そこは、サンパウロ市の移民収容所であった。
聖州奥地を転々と――生活再建の労苦
そこで軍による親戚・知人など行き先調査を受けた後古次郎・キヨ家は、聖州奥地クワターの同郷の知人を頼って列車に乗った。トヨ、トミさんたちは列車の中のことはほとんど記憶にないが、父の知人のシャーカラ(小農場)にお世話になった。そこに着くと、「同郷東風平出身の人々が3、4家族いてサントスから着いた人々の家を皆が寄り合いで築いてくれた。母も朝早く起きてジューシーメー(おじや)を焚いてオニギリにして出かけて行ったこと、また自分たちの家の壁が土をこねり泥土で作られ、屋根は茅で作られ夜になるとお月様が屋根から見え、雨が降ると雨漏りするし壁の土はとけて穴が開いたこと」を思い出す。
そして「自分たちはこの家を同郷の森田さんと半分に仕切って住んでいた」とトヨ、トミさんは当時を振り返る。
古次郎家は、当時奥地の日本人移民の中で盛んに生産されていたハッカ産業に関心を持ち、同郷の具志堅古助、具志堅古保さんたちとソース(共同営業)でハッカを植え付けてその生産を企画したが、その蒸留抽油方法がうまくいかずに営業を取りやめた。
その後、古次郎家は近隣のジョージネールに移動した。そこで棉花栽培を手掛けようとしたようだが、トヨやトミ、光子の記憶にはほとんど残っていないという。
しかしトミさんの記憶には、「父は1日の終わりの夕ご飯を必ず家族みんなが揃って食べること、そして夕食後に子供たちを揃えて『掛け算九九』の勉強を教えてくれたことが強く残って」おり、「自分たちの教育と将来のために必死に育ててくれた」と語った。
古次郎・キヨ夫妻は、サントスを追われて以降の苦難の日々のことをまだ幼いわが子らに語ることはほとんどなかった。だからトヨやトミ、光子さんらに聞いても「父は何も語らなかったし、聞いた記憶がない」、という。
そして「父はいつも良いことや明るいことを話していた。今思うと、子供たちには辛い思いをさせないために自分たちだけで苦しんだのだろう、と大変済まない思いになりますし感謝の思いです」、と父母への思いを語った。
やがて古次郎家は、1年足らずでジョージネールからプレジデンテ・プルデンテの黎明植民地に移動した。当時プ・プルデンテ一帯は、ハッカ生産、棉花栽培が盛んに行われ日本・沖縄県人移民が続々と押し寄せていた。
古次郎家は土地を賃貸して棉栽培を中心にジャガイモや落花生の栽培に励んだ。朝は早朝から畑に出かけ、夕暮れ時まで働いた。
古次郎・キヨ夫妻にとって子供たちの教育のことが最も気がかりであった。サントスを追われた時、長女トヨはブラジル小学校に入学して3カ月が過ぎたばかりで、トミ、光子の学校入学も心配であった。プ・プルデンテに移動して早速入学の手続きを急いだが黎明植民地には学校はなく、遠くボアビスタまで歩いて通学せねばならなかった。
長男マリオ幸男も7歳に成長すると、姉たちと同様にボアビスタの小学校に歩いて通学した。「今もよく覚えていますが」と幸男マリオさんは「歩いていく道を牛が群れをなして学校に行けない日もあった」という。
その頃には次男永常、三男の強も生まれ、古次郎家は3男三女の大所帯になっていた。幸男も3人の姉たちに混じって棉畑やアメンドゥイン、バタチンヤ畑を手伝った。
黎明植民地には日本語学校があり、しかも教師は同郷の具志堅古政氏であった。古次郎・キヨは、喜び勇んで子供たちに日本語を学ばせた。日本が戦争に負け、それをめぐって「勝ち・負けの争いがあり、父母が何か話している覚えはあるが、親たちがどんな考えか知りませんでした。親たちは、いつも私たちに日本語の勉強を勧め、家族の中では日本語を使って生活をしていた」とトヨ、トミさんは語った。
サンパウロ市カショエイラに転住・定着
しかし古次郎家の生活は、朝夕必死に働いても楽ではなかった。その様子を知ったサンパウロ市カショエイラ在住の親族具志堅順一さんがサンパウロに出るよう盛んに勧めた。その時周辺の人々は「都会に出ると電気も水も買っての生活で大変だよ」と反対する者や引き留めるものが大半であった。
しかし将来の生活の見通しが立たぬ古次郎は、順一さんの勧めに従い2度も「視察」に出て、順一氏とも良く語り合い、そして1952年に出聖を決断する。ところが移転に当たっての費用を準備できずに困っていた古次郎は、三女光子の証言によれば、「あのサントス立ち退きの時に隣人のブラジル人に管理を頼んだパステル業の機械類をその隣人がそのまま保管してくれていて、それを処分したお金で間に合わせた。本当に有難く助けてもらった」と父母は感謝し大変喜んでいたという。
こうして1952年に古次郎・キク家は、カショエイラへと移動し、具志堅順一氏にお世話になりながら養鶏とシュシューなどの野菜作りを始めた。サントスを追われて9年の歳月が流れていた。
カショエイラはカンポリンポと共にサンパウロ市の近郊農業地帯に立地し、カンタレーラ中央市場に近隣し生産と販売を兼ね添えた農業地帯であった。古次郎家はカンタレーラ中央市場に生産物を直接出荷して販売し生活は着実に安定に向かった。この様子を伝え聞いた黎明植民地やその近辺のウチナーンチュたちが次々とカショエイラやカーザ・ベルデへと移動してきた。
家業再建して郷里の親族呼び寄せ、県人会に献身
古次郎は、沖縄戦で田畑を焼き払われ焦土と化した戦後の窮乏と混乱の中で苦労している郷土東風平の親族の呼び寄せにも力を入れた。その中に長兄具志堅進氏の一家もいた。
同氏は、沖縄で畜産業の経験があり、移住するや直ぐに養豚をはじめた。氏はカショエイラに養豚業を広めた最初の人物である。古次郎は進氏から養豚の手ほどきを受け養豚業にも事業を拡大した。さらに1970年にはパラーダ・イングレジャにスーパーを進氏と共同で開店し、都市的事業にも進出した。
古次郎は、同地域一帯の沖縄県系人結束のための社会的活動にも具志堅古助、具志堅進氏らと共に積極的に参加した。1957年に創立された在伯沖縄協会(現在ブラジル沖縄県人会)カショエイラ支部の第3代支部長を歴任し、また花城清安沖縄文化センター会長との親交を深め、センター建設に多大な協力を惜しまなかった。
「花城さんからよく電話があり出かけていくことが多かった」とトヨ、トミ、光子の皆さんは語っている。
しかし古次郎は、長年苦しんだ喘息と糖尿病のため1981年に逝去した。享年69歳であった。まだまだ活躍してほしかった、と人々から惜しまれた。
4男ジョゼーは、父がスーパーを開店した時、「自分たちは順一さんに助けてもらって今がある。人の悪口を言ってはいけない。人の助けがあってこそ自分たちは頑張ってこれた、といつも語っていました。順一さんの家の前を通る時は必ず車を止めて挨拶していました。父のこのような教えは自分の中にずっとあります」と語った。
長男マリオ幸男は、「自分はサントスの事件のことで覚えていることは少ないが、日本語を使ったために警察に連れて行かれ何日も閉じ込められたことを父が話していたことを思い出します。自分たちを苦しい思いで育ててくれた父母の苦労に感謝の思いを忘れてはいけない」としみじみと語った。
「あのような事件が2度と起こらぬよう願う」
最後に、沖縄県人会は、当時の連邦政府が「スパイ通報」という無実の罪をデッチ上げてサントス在住6500の日本人移民、とりわけ沖縄県人移民に無謀な強制退去を命じて未曾有の困難を強いたことについて、国としての謝罪を求める請願運動を展開していることについて、皆さんのご意見を聞いた。
トヨさんは、「あの時の父母は本当に苦労したな、と思います。あの時は子供で気づかなかったけれど、仕事も家も失い、苦しかったと思います。県人会の政府への運動、あのようなことが2度と起こらないようにしてほしいと願っています」と語った。
トミさんは「沖縄県人会の皆さんがこのような運動をして下さり、大変有難いと思います。父母があのような苦労の中を頑張ったお陰で今の私達は元気で生活することができています。県人会の皆さんがこんなにも努力して下さり、父母も天上で見てくれていると思います」と語った。
光子さんは、「姉たちが言っておりますように、県人会の皆さんが頑張ってくれて大変有難いです。私は『群星』を読んでおりますが、この本でもこの事件のことを取り上げて下さり、大変感謝しています」と語った。
私たちは、一人ひとりが語る声の重さを改めて実感した。と同時に全ての財貨と住み慣れた家を一瞬にして失ってしまった具志堅古次郎・キヨの《悔し涙》を胸にかみしめ、「あのような事件が2度と起こらぬように願う」という声に応えなければならない。そのためにも証言を更に多く収集し、サントス事件の真実の声を社会全体に広め、沖縄県人会と共に政府への謝罪を求める運動を着実に推し進めていかねばならないと思う。(※本稿はブラジル沖縄県人移民研究塾同人誌『群星』6―7合併号から許可を得て転載)
□取材を受けた皆さん□
長女 真保栄トヨ(84歳 当時8歳)
次女 野原トミ(82歳 当時6歳)
三女 具志堅光子(80歳 当時4歳)
長男 具志堅マリオ幸男(77歳 当時1歳)
四男 具志堅ジョゼー誠一(68歳)