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特別寄稿=苦難の中の先人の教え=ボリビアからブラジルへの再移住の教訓=聖市ビラ・カロン区 高安宏治(たかやすひろはる)=《上》

高安宏治

 様々な理由で沖縄からブラジルに移り住んだ人々の精神的・経済的支えとなっているのが、ウチナーンチュの助け合い精神であり、それはその後の彼らの生活と集団の発展に大きく寄与している。
 笠戸丸移民以来、日本からの農業移民や工業移民、あるいはコチア青年移民や南米産業開発青年隊移民など戦前から戦後に至る日本移民は、様々な形でブラジルに渡って来ているが、その中には多くの沖縄県人移民も含まれている。
 しかし、それとは別にもっと違う形でブラジルに移り、普通の移民の何倍もの苦難に耐えながら定着し、やがてブラジル社会の有力な一員として活躍しているボリビアからの再移住者たち、いわばもう一つのブラジル移民としてのボリビアからの再移住者の歴史がある。
 そこに深く脈打つウチナーンチュの心について、改めて考えてみたい。

A ボリビアへの移民

 太平洋戦争における日本敗戦後の1952年、サンフランシスコ平和条約第3条により、アメリカ軍の直接的統治下に置かれた沖縄に琉球政府が発足、海外移住業務が具体的に実施されるようになった。
 沖縄戦で山野を焼き払われ焦土と化した戦後の沖縄は、アメリカ占領軍がそのまま居座り、多くの土地を軍事基地に強制接収され、また外地の満州や南洋諸島に移住していた引き上げ家族や帰還兵士で溢れ、人口増と食糧難、そして就職難が大きな社会問題となっていた。
 アメリカ軍の統治と軍事政策を前提にして設立されたばかりの琉球政府にとってこの問題は、喫緊の大きな課題であった。その解決策として持ち上がってきたのが海外への移民であり、その第一弾がボリビアへの移民であった。
 ところでボリビアは、南米大陸の中央に位置し、周囲をペルー、ブラジル、パラグアイ、アルゼンチン、チリの5カ国に囲まれて海を持たない内陸国で失敗しました。面積は日本の約2・9倍の国土面積を有し、南米の国々の中では5番目に大きい国で、人口は1135万人(2018年現在)である。未開拓な地域が多い国である。
 首都は、高山地にあるラ・パスであるが、コロニア・オキナワの所在地サンタクルース州は、ブラジルとパラグアイと国境を接している平地にある。

オキナワ移住地の入口にある訪問者を歓迎する看板(Fher_a_p, via Wikimedia Commons)

最初のボリビア沖縄県人移民―1908年

 さて、この国の記録に残る日本人移民の最初の入植は、これまでは1916年とされてきたが、それ以前の1906年から始まったペルー沖縄県人移民の一部が1908年にアンデス山脈を越えてボリビアに再移住していることが近年明らかとなっている。アマゾンのゴムの集散地リベラルタ町に世界的なゴム景気の波に乗り定着した沖縄県人移民の先人たちである。
 彼らは、太平洋戦争下の沖縄戦でアメリカ軍の総攻撃で焦土と化した郷里を救援しようと、1948年8月にラ・パス市で田里鳳彩が中心となり、サンタクルース市の赤嶺亀ホセらと連携して、「沖縄救援委員会」を組織し救援物資を送る運動に立ち上がった。
 また同年11月にはベニ県リベラルタ町でも具志寛長が中心となり救援委員会を立ち上げ、救援物資を送る運動を繰り広げた。それだけでなくボリビアに移住者を受け入れて《沖縄村》を建設しようという運動を起こし、赤嶺亀ホセ、具志寛長、岸本久語、崎浜秀行、比嘉良光らが中心と
なって、「うるま移住組合」を組織し、ボリビア政府との間で交渉を重ねた。
 そしてグランデ河辺の土地を移住地として譲渡することを契約し、1953年8月にサンタクルース州内の国有地1万ヘクタールを譲り受けた。こうして「うるま移住組合」は、同年8月21日付で比嘉秀平琉球政府主席宛てに「移住10カ年計画及び第1回移住者400名分の入国許可取得」の報告書を送ったのである。
 この戦前ボリビア移民の先人たちの貴重な努力が歴史的前提となり、琉球政府は、「琉球政府計画移民」を企画、これを具体化したのである。その委託を受けたティグナー博士による移住適地調査の結論に踏まえ、1954年5月に琉球政府による初のボリビア計画移民が誕生し、6月19日第1次集団移民275名が「うるま耕地」に向かって出発した。

B 次々と直面した難問題

エステンソーロ大統領との会談記念 右から3人目大統領、4人目稲嶺一郎、1人おいて赤嶺ホセ亀

 第1陣が「うるま耕地」に着いたのは8月15日のことであった。しかし、到着したものの宿泊用の長屋はまだ柱だけで屋根も壁もなかった。9月には第2次移民団125名が到着し本格的な開拓作業が行われた。
 だが、明けて10月に突然原因不明の熱病が発生、55年4月までに多くの人々が罹患し15人の人命が失われた。「うるま病」と呼ばれた病気であった。
 原因不明のこの熱病は、40度近い高熱が数日続き突然容態が悪化し死亡に至り、しかも働き盛りの若者を襲う脅威の伝染病であった。それに加えグランデ河の増水による大洪水、そこから逃げて押し寄せてくる野ネズミの大群が移住者の家の中に群がり衣食を食い荒らす被害に襲われた。
 移住者たちは、進退窮まる深刻な事態に直面した。うるま耕地は、全移住者大会を開催し、一刻も早い新たな移住地への移転を決定した。
 そして同年8月にパロメテイーア河畔に移動、さらに慎重な踏査の結果、現在のロス・チャコス村付近に再移動したのである。ここに第1コロニアが建設され、1956年10月には全員移動が完了した。
 沖縄を出発してから2年有半の移住地定着の悪戦苦闘。そしてまた水や食料も満足にない入植地での苦労。その逆境に堪えながら移住先人たちは、第1コロニア建設のために原始林開拓の斧を振るったのである。
 そのエネルギーと団結心は、世界各地の日本人移民史の中でも希有のものと言われるほど困難な開拓地建設へと立ち向かったのである。
 このコロニア・オキナワは、その後も生活用水の不便さ、道路事情の悪さ、繰り返し起きる洪水などの様々な問題に直面しながらも、後続移民団を次々と受け入れた。1958年にはコロニア・オキナワの人口は1435人に増えて飽和状態となり、翌年1月に到着した第6次移民団は、第1コロニアに隣接して新たに建設された第2コロニアに入植した。
 さらに1962年には第3コロニアが建設され、第19次に至る584家族3385名の移民が入植した。
 しかしコロニア・オキナワは、度重なる洪水や旱魃などの天災に見舞われて、生産活動を断念する人々が現れ、重大な局面に立ち至ってしまう。ある時は豊作貧乏が続き、他の時は旱魃による不作が続き、農業が立ち行かない。またしても人々は進退窮まる事態に直面し、サンタクルース市内や隣国のブラジル、アルゼンチンへと再移住する人々が続出した。
 生活の窮迫と将来への展望が描けない中で人々は後ろ髪をひかれながら断腸の思いで耕地を離れていった。コロニア・オキナワは、人口減少の大きな危機に直面したのである。

C ボリビア移民が背負った苦難

ボリビア親睦会の仲間たち

 コロニア・オキナワは、入植当初は陸稲栽培を主軸に営農が行われ、裏作にはトウモロコシを植えつけた。一時は「アロースオキナワ」として有名になるが、陸稲の単作営農は様々な弊害が発生して後退、70年代からは綿花が基幹作物として定着するようになり、牧畜面での充実とあいまって安定した方向へと営農経営が進んでいくかに見えた。
 ところが、この綿花栽培も石油ショックによる世界経済の危機の中で暴落し、しかも異常天候が続き、社会と自然の両面からの理由で急速に衰退した。80年代以降はCAICO(コロニア沖縄農牧総合共同組合)の発足と共に、大豆、ソルゴ、熱帯小麦などの大型
機械営農に変わっていく。
 そしてサイロや搾油工場、畜産品加工工場などの建設により、ボリビア国内のみならず、外国にも産品を輸出する近代農業地帯へと移り変わった。1994年8月には、太田沖縄知事を始め、県議会議長一行、各市町村一行の大慶祝団を招き、コロニア・オキナワ入植40周年の祝典を盛大に祝った。
 しかし、そこに至る開拓過程は、苦難に次ぐ苦難の日々であった。やはり3回もゼロからのスタートに直面した第1次、第2次移民の先人たちが最も困難を強いられた。3度の移動で資金を使い果たし、明日の糧にも窮し、月夜の晩に一家総出で働く困窮の日々が
続いた。
 後年まで苦労したのは、生活用水であった。手堀井戸の水は塩分が強く、飲料水には適さない。そのため天然の溜まり水を利用した。牛糞が浮かぶ水たまりや車の轍の跡の水を取って飲む生活が続いた。アメリカ政府の援助によって地下深く井戸が掘られ、水の問題はやっと8年ぶりに解決されるが、これも井戸から18キロも離れたところに住んでいる人々にとっては、一日中誰かが水汲み担当で働くというつらい日々であった。
 蚊の大群にもまた困る日々であった。夏の暑い日には、びっくりするほどの蚊が襲ってくるため、労働している間もジャンバーなどを着込んで厚着せねばならず、道をゆく時は木の枝で蚊を追い払いながら歩いた。
 来客がある時は家中煙をたいて、足をばたばた動かしながら話をせねばならなかった。食事をする時には蚊帳を張って食べるという、今では信じ難いことなど数々の逸話もある。
 沖縄が日本に復帰した1972年までの戦後27年間、琉球政府というのはあったが、あくまでもアメリカ軍政府の統治下にある、言わばアメリカの「傀儡政府」の様なものであった。
 そのため戦後の沖縄移民は、日本国民でありながら日本政府からのバックアップは何一つ得られず、他府県の移民に与えられた渡航費援助すらなかった。計画移民として送り出していながら琉球政府は、事前の環境・土地調査はなく、医療・衛生設備の準備すらなかった。
 ボリビア移民は、直面する様々な問題を自力で解決しなければならないという、「棄民」としか言いようのないハンディを当初から背負わされていたのである。

D ブラジルへの再移住

 オキナワ移住地は、1967年にようやく日本政府の下に移管され、1968年に海外移住事業団の沖縄事業所が開設された。ボリビア移民が開始されてから既に13年が経過していた。だが皮肉なことに、この年の2月に第1コロニアはかつてないほどの大水害に襲われた。水は家屋の軒下まで浸水し一帯は海のようになり、水が引いて家に戻れるまでに約2カ月もかかった。
 農作物は勿論、鶏や豚・牛などの家畜類も全滅状態だった。この惨状は、移住地の人々に深い落胆と前途への言い知れぬ不安を強いるものであった。
 コロニア・オキナワからのブラジルへの再移住が始まり出したのは62〜3年頃からである。営農の失敗、政府の農業政策への不安、戸主の死亡など様々な理由から新天地を求める転住であった。68年の大水害は、この動きを一段と加速させた。水害による不作連続を打開する目途が立たない中、コロニアの人々は意を決するかのようにアルゼンチンへ、またブラジルへと転住したのである。
 1970年7月、僕たちの家族も、11年間お世話になったコロニア・オキナワ開拓地の農業に見切りをつけ別れを告げた。僕は、凶作の米の収穫が終わり、23歳を迎えていた。結婚1年後の長男宏明が生まれて3カ月目だった。
 自分の過去を振り返って、辛抱強く頑張ったものだと思った。なぜなら今年がだめなら来年、また来年と「来年」の繰り返しの連続であった。ボリビアの農業生活に見切りつけるまでには、長い歳月が過ぎ別れ難い日々が続いた。
 ボリビアは、僕にとっては《第2の故郷》であり、思い出の深いコロニアである。僕は、別れ難い惜別の思いを曳きずりながら家族を引き連れて、明日の希望に燃えてブラジルに旅立った。忘れ難い冬の寒い日であった。
【補注】――今日のコロニア・オキナワは、約230所帯、870人前後の人々が農業を中心としたオキナワ移住地を形成している。先にも触れたように80年代以降CAICO(コロニア沖縄農牧総合共同組合)の発足と共に大豆、ソルゴ、熱帯小麦などの大型機械営農に変貌し、サイロ、搾油工場、畜産品加工工場などか建設され、国内外に産品を輸出する近代農業地帯へと大きく発展している。国内各地から仕事を求めて移り住むボリビア人約1万2千人が県系人農場に働いている。1998年12月にボリビア政府から「オキナワ村」として《コロニア・オキナワ》が正式な行政区として認定され、初代村長として平良勝芳(たいらかつよし)氏が選任され、1998年4月18日にサンタクルース県知事ズボンコ・マコビック氏が署名した。公式地図にも[okinawa]の文字が記され今日に至っている。
 「コロニア・オキナワ」の発展は、一世先駆移民の敢闘不抜の開拓精神、二世、三世の後継者たちの不断の努力の賜物であり、この地球上にもう一つのウチナーが存在していることは、私たちウチナーンチュにとってこの上ない喜びである。そこは私の第二の故郷であり、その発展を心から願っている。

ボリビア移民団の様子(Unknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons)

E 新天地

 当時のサンパウロ市ビラ・カロン地区は、家賃も安く同郷人も多かった。ボリビアからの再移住者の多くはこの地区に住んでいた。サンパウロでの仕事は、資金的に余裕のある人はフェイランテやパステイス売りの権利を取得し、商いを始めた。
 余裕のない人々は、より安い中古ミシンを買い、縫製の下請けの仕事を始めた。こうして新天地ブラジルで生活を始めた人達は、持ち前の団結心と勤勉さで必死になって新しい職業と生活を築きあげてきたのである。
 その当時は、ほとんどの家族が縫製の下請け業とフェイラのパステイス業であった。その仕事を昼となく夜となく寝る間も惜しんで家族一体となって頑張った。わが家も縫製下請け業を義父宮城栄完家の支援を受けて始めた。
 仕事は、朝の7時から翌朝の4時まで働き、1日3時間しか睡眠を取らない日々が続いた。体は働いているが脳は寝ていて、たまたま指をミシンで縫う事もあった。
 トイレで用をすませそのまま寝てしまうこともあり、頭から冷や水を被って目を覚ますこともしばしばであった。2〜3分間でも眠ると頭がすっきり気持ち良い。(つづく、※本稿はブラジル沖縄県人移民研究塾同人誌『群星』6―7合併号から転載。同号は編集部で絶賛有料配布中)