リオ市コルコバードの丘のキリスト像が、建立90周年を迎える。2012年にユネスコの世界遺産にもなった像は、ブラジルで最も大切な観光名所のひとつで、市民には心の拠り所だ。この像は今もなお、世界中の人々を魅惑している。
宗主国ポルトガルの植民者が到着した当初から建設を望んでいたとされるキリスト像だが、建設の具体化は1921年、着工は1926年、落成は1931年となった。
鉄筋コンクリートと石鹸石製のキリスト像は、台座が8メートル、本体は30メートルある。左右に開いた腕の幅は28メートル、重さは1145トンで、世界で3番目に大きいキリスト像だ。
歴史家のパウロ・レイス氏によると、カトリック教徒は都市の高い場所に宗教的な記念碑があるという歴史的な伝統を持ち、コルコバードに宗教的な彫像を建てる事を切望してきたという。
最初のポルトガル人達は16世紀、キリストが悪魔の誘惑に苦しんだ場面から、標高710メートルの山を「誘惑の頂点」と呼んだ。この山がコルコバードと呼ばれ始めたのは18世紀だ。古代からリオに住んでいた先住民達は既に山に上っていたが、公式遠征は、初代皇帝ペドロ一世による1824年だ。
やがて、ここに電信局を設ける計画が始まり、フランス人画家のジャン=バティスト・デブレッロが文書と絵画で記録して以来、市民生活における重要度を増していく。
それから35年後の1859年、フランス人司祭のピエール=マリー・ボスがキリスト像の建設を積極的に訴え始めた。その後、皇帝ペドロ二世の命令でシャペウ・ド・ソルと呼ばれる展望台が造られ、エリート達の散策の場所となった。
この場所が再び注目を浴びたのは、イザベル王女が奴隷解放令に署名した1888年だ。王女の英断を賞賛する人々はこの年、王女の彫像を建てて「贖い主イザベル」と呼ぼうと提案したが、王女はキリストだけが贖い主だからと辞退した。
彼女はイエスの聖なる心を表す像の構築を検討するよう命じたが、翌年の共和国宣言で政教分離が打ち出され、この考えは再び放棄された。
キリスト像建設が具体化したのは独立100周年がきっかけで、右手に地球、左手に十字架を持つ像の建設が計画されたが、地球をボールと間違える人が多く、両手を広げた像となった。
こうして、近くで見ればキリスト像、遠くから見れば十字架に見える像の建築が決まった。全体の責任者はポーランド系フランス人でアールデコの彫刻家ボール・ランドスキ氏、構造計算はフランス人設計士のアルベール・カコー氏、頭や顔、手はルーマニア人彫刻家のゲオルゲ・レオニーダが担当した。
キリストがリオ市を見守るように顔を少し下向きにしたのはゲオルゲ氏、女性の手をモデルにする事はポール氏が決めたという。頭と手はフランスから船で運ばれた後、設計技師のエイトル・レヴィ氏の農園で仕上げてから山頂に運ばれたという。
こうして、世界最大のアールデコ作品であるキリスト像が1931年10月12日に落成。足元には、ブラジルの守護者ノッサ・セニョーラ・アパレシーダを祭る聖堂も造られた。キリスト像は2008年に国立歴史美術遺産院(Iphan)によって文化遺産に指定されており、前年には世界中で行われた人気投票で「世界の七つの新しい驚異」の一つに選ばれた。
前述のレイス氏は、「キリスト像の重要性は宗教だけに限られていない。この像は全ての信仰を包含しており、リオ市を識別する文化的なランドマークだ。キリストは常にリオ市を見守っており、リオ市民は皆、上を見上げさえすれば、キリストの注意深い視線を見出す事ができる事を知っている」と語っている。
市民がキリスト像を愛している事は、90周年を記念する歌が作られたりした事などからもうかがわれる。平年は前ローマ法王など、国内外の著名人も含め、年間約200万人が訪れており、結婚式を挙げる人などもいる。