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《記者コラム》首吊り縄が2回切れたシャギーニャの奇跡=その没後200周年祝う=東洋街多文化共存で観光コースを

本紙ビル敷地はもともと黒人奴隷の墓地

カペラ・ドス・アフリットスの入り口

 サンパウロ市リベルダーデ区の本紙編集部が入る「エディフィシオ・ジアリオ・ニッパキ」(日伯毎日新聞ビル)の場所は、160年ほど前まで処刑された黒人奴隷などの墓地だった。
 だからビル建設当時、基礎工事をするために地下を掘り返したら骨がザクザクでてきたという話は古参記者から何回か聞いた。おまけに「編集部で徹夜している時に黒人の幽霊をみた」「どこかから泣くような声を聞いた」という人までいた。
 今でこそ「日本人街」「東洋街」と言われる地区の一角だが、かつては「アフリットス墓地」と言われた。具体的には、リベルダーデ日本広場横の教会から東洋会館までのリベルダーデ大通りを一辺とし、リベルダーデ日本広場からエステダンテ街を降りてグロリア街までの一角だ。
 実は当時の名残が今も残っている。墓地の中央部分にあったカペラ・ドス・アフリットス(capela dos Aflitos、苦悩する者たちの礼拝堂)だ。どこの墓地でもよく真ん中付近にある礼拝堂が、それだ。
 エステダンテ街を降りていくと、中程に右側に曲がる道があり、どんづまりにその礼拝堂がある。街路名もそれにちなんでRua dos Aflitos(苦悩するもの街)だ。
 この礼拝堂が建てられたのは1779年、242年前と古い。リベルダーデ区に現存する最古の建築物だろう。
 アフリットス墓地が作られたのは1775年だからさらに古く、1858年まで使われていた。ここが手狭になって1858年にコンソラソン墓地が新設され、こちらは使用停止になった。

 礼拝堂は編集部のちょうど裏側にあたり、直線距離にしたら5メートルもない。2000年頃まではロウソクを燃やす臭いが時々していたが、いつの間にかすっかり活動を休止した。
 9月17日昼過ぎに突然、黒人ジャーナリスト、ジョズマル・タデウさんが飛び込みで編集部にやってきて、「この週末から月曜日にかけて、シャギーニャ没後200周年のイベントやるから取材に来てくれ」と依頼してきた。
 シャギーニャ(本名Francisco José das Chagas)とは久々に聞く興味深い名前だと思って話していると、20日が200周年だというのでミサを取材し、関係者と話をした。
 ミサ当日、カペラには来賓のアフロ系団体連合会(Confederacão Nacional dos Entidades Negros)のサンジョセ・ドス・カンポス支部のファブリシオ・オガン会長も緑色のアフロ服で参加していた。
 ミサの最後には、真っ黒い十字架を手にした女性を先頭に、首つり縄をもった信者が続き、それを神に奉納するという、非常に印象的な光景が繰り広げられた。

「首つり広場」が「リベルダーデ広場」に

カペラに奉納されているシャギーニャの絵

 サンパウロ市のリベルダーデ地区は18世紀から19世紀にかけて、自由を手に入れた一部の黒人奴隷が、セー地区を中心とした当時の繁華街のはずれとして定住するようになった地域だ。
 サンパウロ州歴史サイトによれば、1872年当時でもサンパウロ市の人口はわずか3万人余り(http://smul.prefeitura.sp.gov.br/historico_demografico/1872.php)。今のように巨大都市化したのは、外国人移民導入によるコーヒー産業が勃興した1900年以降だ。
 発展前、セー教会(現在の大聖堂の前身)からパチオ・デ・コレジオ、サンベント僧院を結ぶ三角地帯が当時の宗教都市サンパウロの中心地だ。
 その南側、裁判所の裏側で日陰となる場所が、当時の自由黒人の居住区になった。南半球にあるブラジルでは、北から陽が当たるので北向きに立つ建物が多い。
 今でも、地方都市に行くと中心部に教会が北向きあり、その正面が公園になっていて、その周りを市役所や議会、商店が周りを取り囲んでいる。教会の南側、裏側には娼館、ボアッチが立っていることが多かった。
 現在、セー大聖堂の横にはサンパウロ州高等裁判所の立派なヨーロッパ風建築物がある。そこは当時から裁判所があり、農場主に反抗したり、盗んだりした黒人を裁いていた。死刑が宣告されると、その南側がペロウリーニョ(犯罪者を晒す場所)になっていた。現在は9月7日広場(Largo 7 de Setembro)と呼ばれる。
 そこに拘束されたまま数日間晒された後、さらに南側のあった首つり広場(Largo da Forca)に連れてこられ、そこで処刑された。それを埋葬したのが「アフリットス墓地」だ。その首つり広場がのちに「リベルダーデ広場」(現在のリベルダーデ日本広場)になった。

シャギーニャの奇跡

ミサで祈りを捧げるタデウさん

 シャギーニャは200年前に、そこで首つり処刑された黒人系軍人とされている。彼は「カサドレス部隊」と呼ばれる陸軍分隊に所属していた。だが、給与支払い遅滞(ポルトガル軍と同等の給料を主張したという説も)などを理由に反乱を起こしたリーダーの一人だった。軍人の反乱は重罪で死刑が宣告された。
 1821年9月20日、彼が広場で絞首刑に処される際、当時の習慣として群衆が集まっていた。他の人が同じことを繰り返さないようにするための見せしめだ。
 そこで思いがけないことが起こった。首つりのロープが切れて死ななかったのだ。やり直したら2度目もロープが切れたことから、群衆はこれを「神の奇跡」だから、シャギーニャを無罪「自由にしろ!(Liberdade)」と合唱を始めたという。だが執行人は容赦なく木の棒でシャギーニャを撲殺し、その死体は「アフリットス墓地」に埋められた。
 タデウさんは「これが後にリベルダーデ広場と呼ばれるようになった由来だ」と強調する。
 従来は、絞首刑される黒人奴隷に対して「死んで魂だけでも自由になれ」という意味でリベルダーデ広場と名付けられたと言われることが多かった。実際、サルバドールやベロ・オリソンテなど、やはり死刑執行場だった場所が「リベルダーデ広場」と名付けられているからだ。
 だが、シャギーニャ信仰する人たちはサンパウロ市だけ違う解釈をしている。これはこれで歴史的に興味深い現象だ。

「シャギーニャの扉」を3回ノックして祈る

カペラの内部左側にある「シャギーニャの扉」に祈りを捧げる信者

 タデウさんは続けて、「シャギーニャは首つり台に連れて行かれる直前、カペラ・ドス・アフリットスで待機させられた。名前を呼ばれて死刑台に向かう前、通り抜けたドアが今も残されている。シャギーシャを聖人と慕う信者らは、このドアに願いことを書いた紙を挟み、3回ノックをすると叶うと信じられている」と説明した。
 実際200周年ミサの最中、そのドアに願いことを挟んでノックする人の姿が次々に見られた。
 シャギーニャの首つりが2度失敗した事件は当時、「神の意思を示す奇跡ではないか」と多くのカトリック教徒を感動させた。だから首つり台の横に、彼の名誉のために「絞首刑の聖十字架」として知られる十字架を設置した。
 後に、その十字架の跡地に1887年、Igreja Santa Cruz das Almas dos Enforcados(絞首者の魂の聖十字架教会)が建てられ、その魂に祈るためのロウソクが今でも延々と点されている。これがリベルダーデ日本広場横に立っている教会の由来だ。
 だから今でもその教会の前では、黒人が多いバイア州の風俗であるバイアーナの格好をした女性が花を売ったり、同州名物アカラジェを作って売っていたりする。
 だが200年前の黒人、現在の東洋街というイメージのギャップは激しい。その流れの中で、日本移民110周年を記念して2018年7月18日、故ブルーノ・コーヴァス市長が広場名称を「リベルダーデ広場」から「リベルダーデ日本広場」に変更することを承認したことに対して、シャギーニャ信仰の強い人たちは強い反発を覚えている。
 タデウさんは「リベルダーデ日本広場に名前を変えたことに関する公聴会を開くように市に働きかけている。名称変更からは我々黒人の歴史を軽視した印象を受ける。もっと尊重するべきではないか。むしろリベルダーデ・シャギーニャ広場に変えたい」と明言した。
 さらに2018年後半にガルボン・ブエノ街に中国人が新商店を建設するために工事を開始したところ、埋葬された黒人の骨が次々に出てきたことで、一気にその動きが強まった。同年12月ごろから、骨が出てきた一角に「アフリットス資料館を建てよう」とする望みが高まっている。
 歴史があまりないブラジルにおいて、リベルダーデ地区だけは200年前からの逸話に彩られた特殊な場所だ。しかも、とても豊かな歴史エピソードだと感心する。

対立や軋轢から対話と強調、多文化地区観光に

 日系人に歴史があるように黒人にもある。今は韓国人も、中国人もここを舞台に歴史を刻みつつある。リベルダーデという場所は「幾重にも重なった歴史」自体が魅力ではないか。ここが重層的、多元的な魅力を発信する場になれば、さらに観光地としての話題は尽きなくなる。
 エスピリトサント州に欧米初の大仏を作った禅光寺(ビッチ大樹住職)は、四国の88カ所巡りから着想を得た「巡礼の道」というツアーを実施している。仏教寺院はここしかないから、近隣のキリスト教会と組んで市内23カ所の宗教施設を5日間かけて巡るもの。
 巡礼用に「パスポート」を発行して、巡った個所のスタンプを捺せるようになっており、全て巡ると修了書も取得できる。外国からの参加者がいる好評ぶりだという。
 そこで、リベルダーデ区周辺の多文化巡回観光ルートを作ったらどうかと思った。回った地点のスタンプを捺して、抽選で商品券が当たるなどのキャンペーンも展開できる。
 この近辺には宗教施設だけでもセー大聖堂、日系に縁の深いサンゴンサーロ教会、曹洞宗仏心寺、台湾系仏教寺院の如来寺、下町のグリセリオ街方面まで足を伸ばせば韓国系プロテスタント教会、ペンテコスタル系「神の愛教会世界本部」(Igreja Pentecostal Deus é Amor – Sede Mundial)、シリア難民のキリスト教会など実に多彩なものがある。
 文化関係ならサンジョアキン街のブラジル日本文化福祉協会ビル内の裏千家お茶室や日本移民史料館、サンパウロ台北文化センターなどはもちろん、ソゴウ・ビル内の漫画アニメ店も面白い。
 さらに文化活動の練習風景を見るなら、丹下セツ子太鼓道場の練習場、藤間流日本舞踊学校、中国獅子舞の練習場、広島県人会の神楽練習場、沖縄県人会館の三線練習場、海藤三味線教室などは時間を合わせていけば、それぞれに興味深い様子が見られるはずだ。
 レストランだって日本食各種、ケーキや菓子パンのカフェやタピオカミルクティ店、リベルダーデ日本広場のフェイラ、中華料理、タイ料理、韓国料理、シリア料理など数え切れない。
 ニッケイパラセホテルの最上階サロンやイベントスペースなどで日本舞踊や琉球舞踊を始め、広島神楽や沖縄獅子舞を見せたり、民謡を聞かせる日本文化イベント、さらには中国獅子舞、韓国舞踊も招待してショー付きディナーを定期開催してもいいのではないか。
 これだけ多彩なものが1地区で見られる場所は、ブラジル広しといえどあまりない。
 多言語対応のガイドも育成したい。ポ語、英語、日本語、中国語、韓国語などでも説明できるガイドがいれば、外国人観光客にも対応できる。これはちゃんとコーディネートすれば立派なビジネスになる。しかもお互いにとって利益になる形にできるはずだ。
 東洋街には、いろいろな民族や文化がこの狭い一角にひしめいている。それを放っておいて対立や軋轢を生むのではなく、対話と協調を重ねるなかで活用する方向にいけないだろうか。
 ブラジルらしく宗教や国籍、文化の垣根を超えた多元主義的な取り組みを、リベルダーデ文化福祉協会(ACAL)や文協などの日系人が主導したら、きっと皆から感謝されるのでは。(深)