ホーム | コラム | 樹海 | 《記者コラム》〝魂〟が込められたキリスト像=なぜ人々はリオに心惹かれるのか

《記者コラム》〝魂〟が込められたキリスト像=なぜ人々はリオに心惹かれるのか

リオ市街を見守るキリスト像(Foto: Alexandre Macieira/Riotur)

 20世紀のブラジル音楽を代表する作曲家の一人、トム・ジョビンの代表作、ボサノバ「Samba do Avião(飛行機のサンバ)」(https://www.youtube.com/watch?v=0xNO4NjTnfM)では、外国から飛行機で帰ってきてリオ上空を飛んだときの切ない心境を次のように歌っている。
Minha alma canta
Vejo o Rio de Janeiro
Estou morrendo de saudades
Rio, céu, mar
Praia sem fim
Rio, você foi feito prá mim
Cristo Redentor
Braços abertos sobre a Guanabara
Este samba é só porque
Rio, eu gosto de você
(著者意訳=リオを見ながら、私の魂は歌う。懐かしさで死にそうだ。リオ、空、海、延々と続く海岸、リオは私のためにある。キリスト・レデントルはグアナバラ湾の上に腕を広げている。このサンバは、リオが好きだから作ったのだ)
 ここに歌われているコルコバードの丘のキリスト像が、12日に建立90周年を迎えた。
 「Cidade Maravilhosa(素晴らしい街)」と呼ばれるリオ市を訪れた人の大半は、間違いなくこのキリスト像に足を延ばす。正式名称「Cristo Redentor」の意味は「救世主(贖い主)キリスト」だ。
 両手を開くことで心を開いて歓迎する様子を見せ、リオ市街をじっと見守る姿には、キリスト教徒でなくても敬虔なものを感じさせる。
 では「贖い主」とは何を意味するのか。『旧約聖書』では、司祭の手によって動物が神への生け贄として捧げられることによって罪が購われた。たとえば贖罪の羊=スケープゴートだ。

キリスト像を使った比喩をする英週刊エコノミスト紙の表紙

 これが『新約聖書』では、大祭司としてのイエス・キリストが、自分を十字架で犠牲として神に捧げることにより、一度限りの決定的な贖罪がなされ、それは永遠に有効なものとなったとされている。だから「人類を救った偉大な贖い主」というのが「O Redentor」の意味だ。
 ちなみに、なぜリオ市が「Cidade Maravilhosa」と呼ばれるかと言えば、市歌の題名からだ。ブラジル在住者なら一度は聞いたことがあるだろう(https://www.youtube.com/watch?v=UKBukXgT_ps)。
 このリオ市歌はもともと、1935年のカーニバルのためにアンドレ・フィーリョが作曲し、シルバ・ソブレイラが編曲した行進曲(マーチ)だ。60年代には「事実上の市歌」だったが、リオ市議会が公式承認したのは2003年8月と意外に遅かった。
 このキリスト像を見るために、リオを訪れる観光客は1日を費やす。パンデミック前までは年平均で約200万人がキリスト像を訪れたという。
 外国人にとってはブラジルを代表する存在ともいえ、英週刊エコノミスト紙は、ブラジル経済を論じる際に、よくキリスト像を使う(表紙画像)。

実は像内部にはこっそり〝心臓〟も

G1サイトの記事にある図解(https://g1.globo.com/rj/rio-de-janeiro/noticia/2021/10/10/cristo-redentor-a-historia-da-persistencia-de-uma-ideia-e-da-construcao-do-maior-simbolo-do-rio-que-faz-90-anos.ghtml)

 G1サイト(https://g1.globo.com/rj/rio-de-janeiro/noticia/2021/10/12/raio-x-cristo-redentor-90-anos.ghtml)を始め、ブラジル・メディアは12日前後にこぞって建立90周年の報道を行った。
 コルコバードのキリスト像は鉄筋コンクリートで骨組みと全体形状を作り、耐久性を増すために、その表面を1辺が3センチの三角形の石鹸石でモザイクのように覆っている。
 像の高さは30メートルで、台座は8メートル。重さは1145トン。腕を広げた幅は28メートルに及び、遠くから見たシルエットはまさしく十字架だ。
 アニメに登場するロボットと比較した場合、台座まで含めた高さなら起動戦士ガンダム(18メートル)の2倍以上あり、エヴァンゲリオン初号機(40メートル)よりやや小さいぐらいだ。
 内部は13層の建造物になっており、実は9層部分の内側に1・3メートルの〝心臓〟モニュメントが作られている。これは外から見えない。キリスト像の〝心臓〟は限られた人しか見ることができないが、ここに像の魂が込められている。
 世界における巨大キリスト像第3位というアールデコ作品だ。第1位はポーランドにある像で33メールに加え、3メートルの王冠を被っており、2010年に完成した。第2位はボリビアのコチャバンバにある像で34メートルあり、1994年に完成した。
 1位も2位も両手を開いた立像で、リオからインスピレーションを得たことを伺わせる。だからリオの像が1994年までは世界最大で、今もって世界で一番有名な像でもある。

サッカーボールを持ったキリスト像?

 歴史を振り返ると、ブラジル独立の頃からこの丘の上にキリスト教のモニュメントを建てる悲願が、地元宗教界にはあった。というのも中世からカトリックには、町の高台に宗教的モニュメントや教会を建てる伝統があったからだ。
 1809年、ナポレオンのフランス帝国がポルトガルに侵攻すると、ポルトガル女王マリア1世、摂政王子ジョアン以下、王室成員およびポルトガル宮廷の貴族1万5千人が、イギリス艦隊の護衛を受けて植民地ブラジルのリオ・デ・ジャネイロに避難した。
 ジョアン6世は1815年にブラジルを「ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国」を構成する王国に格上げしたため、リオが帝国首都として発展し始めた。

ヘイトール・シルバ・ダ・コスタが描いた最初のキリスト像のイメージ図。左手に地球儀、右手に十字架というものだった(Abner Ismael Bento, via Wikimedia Commons)

 ジョアン6世は1821年3月7日に王太子ペドロを摂政に任命し、自身の名代としてブラジル統治を委ね、4月26日にヨーロッパへ帰った。そんな1822年9月7日、ペドロは聖市のイピランガの丘でブラジル独立を宣言した。
 その後1859年、コルコバードの丘を見たフランス人司祭ピエール・マリー・ボスは、この地にキリスト像を建てることを提唱したが、その時は忘れさられた。
 1888年には、当時の皇帝ドン・ペドロ2世の命令で、コルコバードの頂上に展望台が建設されたため、モニュメント建設の話題が再び取り上げられることになった。
 そこで、ブラジルの奴隷制度を廃止した「アウレア宣言」に署名したイザベル王女に敬意を表したいと考えた宮廷人たちは、イザベル王女の銅像を建てることを提案した。そのイメージは「イザベル・レデントラ」(贖罪のイザベラ)と呼ばれた。だが王女は、その提案に感謝しつつも、自分は相応しくないと計画を拒否した。
 キリスト像を建てる計画が本格化したのは、ブラジル独立100周年の1922年だ。その際は、ヘイトール・シルバ・ダ・コスタ設計による、左手に地球儀と右手に十字架を抱えたキリスト像が第一候補として考えられていた。
 だが、おりしもサッカーをブラジルの国技にする動きが盛り上がっていた時期であり、地球儀がサッカーボールに見えることから、「キリストがサッカーボールを持っているように見える像を建てるなどとんでもない」と真摯な宗教界から不評を買って、現在の姿になった。実にブラジルらしいエピソードだ。

フランスで頭部と手を建造して輸送

 現在のモニュメントは、フランス人彫刻家のポール・ランドウスキーと同胞エンジニアのアルベール・カコーの協力のもと、ブラジル人技師のヘイトール・シルバ・ダ・コスタが設計し、1922年から31年にかけて建設された。
 世界の主要なカトリックのモニュメントの一つであるこのキリスト像だが、デザインしたランドウスキーは無神論者だったと言われる。

もやのかかった幻想的なリオの夕暮れ。中央にキリスト像の十字架型シルエットが見える(Foto: Tomaz Silva/Agência Brasil)

 像を作るための具体的な作業期間は、1926年から1931年までの5年間だった。パリでは、デザインやイメージの一部を設計図や模型やモデルとしてまとめた。その間にコルコバードでは、像を迎えるための基礎工事として、丘の頂上をダイナマイトで削って地面を整えていた。頭部と手はフランスで建造され、船で送られてきた。
 その最中の1928年、教皇ピウス11世は人類がイエスの聖心に対して行うべき償いについての回勅を発表した。それを受けセバスティアン・レメ枢機卿は翌29年、建造中のキリスト像の胸に心臓を作り、像全体をイエスの聖心を様式化したモニュメントにすることを求めた。
 カトリックの家庭では、家の玄関にイエスの聖心の像や写真を飾ることが伝統的に行われている。家の中で一番よく行く場所に像を飾って、皆が崇めるようにするためだ。
 つまり、「ブラジルの玄関」であるリオの高台にイエスの聖心の像を設置することで、国全体が神の愛を身近に感じるように考えた。

島崎藤村、三島由紀夫も愛したリオ

無数の三角形をした石鹸石が表面を覆っている(Foto: Tomaz Silva/Agência Brasil)

 日本人で史上初めてリオに足を踏み入れたのは榎本武揚(えのもと・たけあき)と言われる。
 1861年、海軍操練所教授であった榎本武揚は、幕府発注の軍艦「開陽丸」の建造監督を兼ねてオランダに留学。1866年に留学を終え、開陽丸に乗って帰朝途中の1867年1月21日にリオ・デ・ジャネイロに寄港した。
 外務省サイト(https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/j_brazil/01.html)には、《開陽丸は同地において「甚々宜しき風聞を得たり」と、幕末外交史料集『続通信全覧』の「荷蘭(オランダ)製造軍艦開陽丸一件」に記されています》と書かれている。
 この時の「はなはだ良い風評を聞いた」という好印象から、榎本武揚は外相時代に中南米移植民を思いつき、1894年に代議士の根本正を中南米視察に派遣し、翌1895年に日伯修好通商条約が結ばれた。当時はリオが首都だった関係で、1897年にリオ郊外のペトロポリスに最初の公使館が開設された。
 1936年9月、リオ開催の世界ペングラブ会議に出席した島崎藤村は、ポン・デ・アスーカルを見上げる公園にたたずんで《巨大な岩山のそびえ立つ岸深で懐深い港。暮れ行く湾頭の風光を眺め惜しんだ》と記したという(http://www.ccijr.org.br/50syuunenn/kinenshikiten.pdf
 三島由紀夫は旅行記『アポロの杯』の中で、午前1時にリオに飛行機で到着する直前、飛行機の窓から見て《この夜景に墜落してもいい。自分は何故こうまでリオに憧れるのか。わからない。地球の裏側から絶えず私を牽引していた何物かがあるのだ》とその時の強烈な印象を描いている。
 興味深いことに、冒頭に紹介したトム・ジョビンに近いことを三島は感じてる。三島は1952年1月末からちょうどカーニバル期間をリオで過ごした。芸術家にとってのリオというのは、特別な場所のようだ。
 移民文学の中でも、リオ自体やキリスト像のことは描かれている。
 移民の実験台として水野龍から送り込まれた鈴木貞次郎が、笠戸丸以前の体験を書いた『伯国日本移民の草分け』(1933年)の冒頭には、1905年4月、彼が乗ったS号がリオ港に入港する時のことをこう描写している。
 《天柱の様にそそり立ったポン・デ・アスーカルから烏帽子の形をして斜めに落ちかかった様なコルコバード山、それを背景としたボタ・フォーゴからゴべルナドール島に引いた一線は絵にもあらわし得ないと思わるるリオ港独特の自然美である。(中略)
 激し易い青年は『まあ! 何んと言う雄大な景色だろう(中略)S号の甲板を心そはそはと往来しながら展望さるゝグァナバラ湾内の光景は全くこれ青年の心を捕捉し陶酔のまぼろしに引き入れる大きな魅力であった。『伯国に来てよかった』心ひそかにかく叫んだ私の目には嬉しなみだがにじんでいた》
 他にも、日系社会の代表的な短歌作品を集めた『コロニア万葉集』(1981年、コロニア万葉集刊行委員会)にも、コルコバードのキリスト像らしきものを詠った作品が二つ見つかった。
《不安抱く移民の吾にキリスト像は優しかりしよ胸いたきまで》(市川幸子、1958年)

2018年7月、眞子さまは日本移民110周年を記念してブラジルご訪問の際、キリスト像にも足を延ばされた(Foto Tomaz Silva/Agência Brasil)

 俳句では、念腹門下の合同句集『旅人木』(1968年)で見つけた。《焼ミーリョ コルコバートの階に買ふ》(和山素描)
 短歌では、次の作品だ。《わが遠くリオに来たりて娘ら想うキリスト像の真下に立ちて》(仙田ます子、1959年)
    ☆
 「画竜点睛を欠く」という言葉がある。中国の梁の時代に絵師が竜の絵を描き、最後に瞳を入れたところ竜が天に昇ったという故事があり、「画竜」は竜の絵を描くこと、「睛」は瞳のことで「点睛」は瞳を点ずるということ。だから「画竜点睛を欠く」が意味するのは、物事をりっぱに完成させるための最後の仕上げを忘れることだ。
 リオのキリスト像は、まさにこの龍の絵の瞳だとつくづく思う。もともと風光明媚な土地柄であったことに加え、キリスト像が加わることで、町のイメージが一気に昇華した。
 同じく「仏作って魂入れず」という言葉もある。まさにリオという町が仏像だとすれば、その魂がキリスト像だと思う。その魂に世界の人々が何かを感じ、惹かれるのだ。
 90年前にこの像を建立した日、リオという町に瞳が描かれたのだ。とはいえ、こんなに神の祝福に満たされた町なのに、治安も政治も良くならないのは、本当に残念なことだ。(深)