今、フェノロサの訓告を再読する意義
最近、「日本人であること」を再考することが多くなった。そもそも、外国人が日本という国に対して、多大な尊敬や憧れを抱くのは、なぜだろう。
国の存在の根幹を為すところが変化することなく続いていること。神話の時代から続く皇統の存在があり、一つの言語が絶えることなく伝承され、学問・芸術は常に琢磨されて継承されている。
それによって、「世界的に唯一無二の国」との価値が認められているからに他ならない。
しかし今、フェノロサが危惧したように、日本人自身がそのことを理解せず、他国のなりふりを真似するようなことで、自国の文化を迂闊にしてはいないか。
外国人が日本に抱く価値観を、フェノロサの訓告に学び直す必要を痛感している。
《願わくば、ヨーロッパ人の真似ばかりせずに、精神を高潔にし、日本人たることを嫌うような風潮が愚弄であることを世に知らせ、日本人として誇れる高い文化の創造を切望してやまないのであります》(『フェノロサの講演』より)
この言葉は、明治21年(1888年)6月5日淨教寺(奈良県奈良市)の本堂にて、教え子で弟子の岡倉天心(本名・覚三。彼は後に『茶の本』The Book of Teaを英文で著した)の通訳により開催された講演の一節である。
明治期のお雇い外国人教師・3000人
アーネスト・フェノロサ(Ernest F. Fenolosa 1853-1909)は、「お雇い外国人教師」として東京帝国大学の教壇に立った。
若干25歳で、明治11~19年の間、東京大学で政治学、経済学、社会学、哲学、美術史などを教え日本美術の復興と再生に多大な貢献をした人物である。
当時の日本は先進国の欧米に追いつく為に、学者・技術者・軍人などの多くの欧米人を「お雇い外国人」として高給で雇い入れ、ピーク時の明治7年(1874)は500人以上が招かれ、明治期全体では3千人にのぼった。
フェノロサが来日した頃には、廃仏毀釈運動は収束しつつあったが、西洋文化を重んじるあまり、日本古来の文化を軽視する風潮は依然として続いていた。
来日後すぐに、仏像や浮世絵など様々な日本美術の美しさに心を奪われたフェノロサは、古美術品の収集や研究を始めると同時に、鑑定法を習得、最も彼を魅了した奈良にたびたび出向き、飛鳥・天平の仏像調査に没頭した。岡倉天心が常に通訳として同行した。
二人はともに、明治23年(1890)、東京美術学校(現・東京藝術大学)を設立し、日本の文化、芸術復興、古美術保護に尽力。
フェノロサは同年帰国するが、その後もボストン美術館東洋部長などを歴任、日本美術の紹介に努め、明治41年(1908)、ロンドンの大英博物館で急死。享年56歳であった。
遺体はロンドンで火葬され、未亡人の依頼により遺髪と、遺骨は遺言により分骨され、フェノロサが受戒した滋賀県大津市の三井寺(みいでら)法明院の墓地に葬られた。生前、仏教に改宗し法号を「諦信」と授けられていた。
日本人による日本文化の破壊を目の当たりしたフェノロサの衝撃
当時の奈良は、明治元年(1868)に明治政府が出した神仏分離令をきっかけとして全国的に起きた、いわゆる廃仏毀釈で多くの仏教建築、仏像、仏画などが破壊され、奈良興福寺の五重塔も売りに出されて解体寸前であった。
日本人による日本文化の粋である芸術、美術の蹂躙と破壊行為を目撃したフェノロサは、強い衝撃を受ける。
廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)とは何だったのか
廃仏毀釈とは、仏教寺院・仏像・経巻(経文の巻物)を破棄し、仏教を廃することを指す。「廃仏」は仏を廃(破壊)し、「毀釈」は、釈尊の教えを壊(毀)すという意味。
江戸時代から儒学の興隆でしばしば起きるようになったが、とりわけ明治初期に神仏分離によって神道を押し進める風潮の中で、政策を拡大解釈し暴走した民衆をきっかけに引き起こされた。
日本政府の神仏分離令や大教宣布はあくまでも神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として仏像・仏具の破壊といった廃仏毀釈運動(廃仏運動)が全国的に発生したのであった。
その結果、伊勢(三重県)では、伊勢神宮のお膝元という事もあって、わずか4カ月間で、196の寺が廃寺となった。
奈良興福寺でも、現在は国宝に指定され、『阿修羅像』で有名な奈良興福寺の場合、五重塔は2万5千円(現価)で売りに出され、薪にされようとしていた。寺領の没収と同時に120名の僧侶が神官に転職させられた。
安徳天皇陵と平家を祀る塚を境内に持ち、「耳なし芳一」の舞台としても知られる阿弥陀寺も廃され、赤間神宮となり現在に至る。
廃仏毀釈がもっとも徹底された薩摩藩では、藩内寺院1616寺すべてが消え、僧侶2964人すべてが還俗させられた。廃仏毀釈の主たる目的は、寺院の撞鐘、仏像、什器などから得られる金属から天保通宝を密かに偽造し軍備の拡充を図った。
特に最悪の状況だったのが仏像・仏画で、日本古来の浮世絵や屏風は二束三文の扱いを受け、仏教に関するものは政府の圧力によってタダ同然で破棄された。
全国の大寺院は寺領を没収され一気に経済的危機に陥り、生活の為に寺宝を叩き売るほど追い詰められた。
このように廃仏毀釈は、日本人の手で日本文化を破壊した最悪の愚行であった。
寺院や仏像、仏画他多くの美術品が破棄・破壊されていることに強い衝撃を受けたフェノロサは、日本美術の保護に立ち上がった。
1880年、27歳のフェノロサは、文部省に掛け合って美術取調委員となり、岡倉天心を助手として京都・奈良で古美術の調査を開始した。
明治政府から関西古社寺調査団の顧問に抜擢されたフェノロサは、文化財保護を強く訴え、数々の文化財を破壊から守った。そして、フェノロサの調査が基となって、1897(明治30)年には古社寺保存法(現在の文化財保護法)が制定されたのだった。
日本人の美意識覚醒に邁進したフェノロサ
こうした活動を通してさらに日本美術の魅力の虜になった彼は、1881年、滅亡寸前の日本画の復興を決意し、日本画家たちに覚醒を求める講演を行なう。
「日本画の簡潔さは『美』そのものである。手先の技巧に走った西洋画の混沌に優れて美しい」と力説した。
1888年(35歳)、弟子岡倉天心は欧州の視察体験から、国立美術学校の必要性を痛感。そして日本初の芸術教育機関、東京美術学校(現・東京芸大)を設立し初代校長となり、フェノロサは副校長に就き、美術史講義を担当した。
そして、その明治二十一年(1888)六月五日、奈良市淨教寺の本堂において、「奈良の諸君に告ぐ」と題した講演が、岡倉天心(覚三)の通訳により開催された。その一部をここに紹介したい。
フェノロサの講演
奈良は中央アジアの博物館である。わたくしは昨年、欧州の国々に遊び、とくにイタリアの都、ローマにおいて古物を調べてまいりました。
この度は日本のローマである奈良にまいりまして、こうしてみなさんにお目にかかりましたこと、まことに奇遇、光栄、と喜んでいる次第であります。
さて、美術と宗教に関しまして、奈良とローマは大変よく似ております。
徳川時代、人々は、奈良にいかなるものがあるのか知らないまま、三百年を経過してきたのでありますが、昔の人の思想がいかなるものであったかも知らず、古物の価値も知られなかったありさまは、あたかもローマの古物が土中に埋もれたままであった時代と変わりありません。
近来となって、古物が探求され、奈良というところも知られるようになりましたが、もしもあの正倉院の御物がなかったならば、日本の古代文化がいかなるものであったか、ほとんど知られないままだったのではないでしょうか。
それら日本の美術は、ヨーロッパのものとすこしも劣るものではありません。つまりアジアの仏教美術は、この奈良において、完全なるものに仕上がったのだと、わたくしは信じて疑わないのであります。
奈良は、宗教や美術のみならず、ほかにも多くのことで大陸と関係をもってきました。しかし、多くの国は滅亡し、あるいは戦乱を経て、もはや昔の面目を残していないのであります。当時の文物は、日本に存在するのみでありへます。
奈良は、じつにじつに中央アジアの博物館と称してよいのであります。
高い文化の創造を切望
ですから、願わくば、ヨーロッパ人の真似ばかりせずに、精神を高潔にし、日本人たることを嫌うような風潮が愚弄であることを世に知らせ、日本人として誇れる高い文化の創造を切望してやまないのであります。
美術の本義とは人の心にあるものを、外に表すもの。美術について申しますと、ただ器用さや精巧さのみを競わず、昔の人の高尚なる精神をとらえるよう努めるべきであります。
美術の本義とはいかなるものか。大意を申しますと、人の心にあるものを外に表すものであります。
もし人間世界に美術がなければ、人間は機械的となり、人情は野卑におち、蒸気機関と同じありさまとなりますことは、歴史に明らかであります。
美術は、いついかなるときも文化世界にけっして欠かせないもの、文化の要であります。
しからば日本人は、特有な高尚の思想を研磨し、もって世界に勝ちを制するべきだと思うのでありますが、しかし、完全に達するは、一朝一夕にしてなるものではありません。
その機会を得るには、美術の教育にあります。しかし美術は機械ではありません。心の感得物であります。
美術の妙味は、規則をもって教えられるものでなく、名作を多く見て、自然と感得するところにあります。それには、名人の遺作を多く蒐集する博物館を設ける必要があります。
それには、模範なる古物が散逸しないよう、一か所に集めなくてはなりません。
最後にわたくしが奈良のみなさまに望みますところは、ここでみなさまが奮発し、率先して、日本美術復古の唱導者となってほしいことであります。
奈良の古物は、世界の得ることのできない貴重な宝。この奈良の古物は、ひとり奈良という一地方の宝であるのみならず、じつに日本の宝でもあります。
いや、世界においても、もはや得ることのできない貴重な宝なのであります。ゆえにわたくしは、その義務はみなさまの大いなる栄誉でもあると思うのであります。
この古物の保護保存を考えずして、いたずらに目の前の小利に惑わされてしまっていては、まことにまことに惜しいことであり、それではこの奈良の価値をまったく理解していないのと同じになってしまうのではないかと、わたくしはそう考えるのであります。(大津昌昭著「森川杜園の生涯」(フェノロサの講演要旨抜粋)
【参考文献】
★京都大学学術情報リポジトリ村形明子「美術真説」とフェノロサ遺稿1983
★祈りの回廊2018年新関伸也http://inori.nara-kankou.or.jp/inori/special/17fenollosa/
★フェノロサ講演「奈良の諸君に告ぐ」(http://joukyouji.com/houwa0806.html)