ホーム | 文芸 | 連載小説 | 繁田一家の残党 | 繁田一家の残党=ハナブサ アキラ=(9)

繁田一家の残党=ハナブサ アキラ=(9)

 動機は極めて単純明快。先生が九大の医局に入局した年、忘年会の酒集めに業者回りした際、当時の東芝支店長の松原精太郎が、「先生どこな? 別府! 俺も大分県出身、姫島の漁師の倅たい。酒3本と云わずに10本でも20本でも持って行きんしゃい」。
 先生この時から既に、これから勤務する病院ではすべて東芝のレントゲンを使うことを心に決めていた。
 ところが、開業医が相談に来ると先生は島津のレントゲンを薦めた。ある日、文句を云ったら「たわけ者! これだけ買ってやってるばってん、なんごつ言うか、熱心にセールスに来る関の身にもなってみんか」と、どやしつけられた。
 至極ごもっともな話で、島津製作所のセールスマンの関氏は献身的に先生に尽くしていた。そこが、この先生の偉いところ、実に公明正大。
 大分県漁業労働組合からは、村山富市が社会党委員長を経て首相にまでなったが自らその器にあらずと、短期間で身を引いたように県民性は潔い気質。
 そんな先生も、時々「ハナさん、俺は今晩2号のところに泊まるけん、かあちゃんをダンスにでも連れて行ってくれ。やっぱり頼りになるのはお前さんの方で、こげんこつ関君には頼めんばい」といわっしゃる。
 ミス田川にもなった夫人は、豊満な体を密着させて踊るのがお上手。いつも先生が妾宅に泊まる度、夜通しお付き合いさせられた。
 先生に最後に会ったのは1985年、ワイがニューヨークのGE国際商事本部長として大分県日出にあるホックス電子訪問の際、当時ホックスの社長をしてた工藤典詮氏(元・佐藤文生郵政大臣第一秘書、現・ホックス会長)が「大分も懐かしいでしょう。誰か会いたい人が居ますか?」と訊かれ、岩屋先生と一献傾ける一席を設けてくださった。
 県会議員落選中の先生は、遠来のワイの来訪に大いに喜ばれ、鳩山邦夫第一秘書をしてる息子が出馬の秋には「ニューヨークから応援に駆けつけました! と第一声を頼むばい」と、おっしゃった。
 ワイは「先生の御子息を日本の初代大統領にしましょう! 福沢諭吉、双葉山に継ぐ偉人を大分県から輩出しまょう」と誓った。
 当時の原田音二郎社長が別府に出張してきた時には、ホテル清風で岩屋先生も一緒に3人で温泉に入り、日本の名城が話題になった。城の研究家でもある岩屋先生が、風呂の中でしゃべりだしたら、とどまるところを知らず。以前、姫路工場長をしてた社長が姫路城の資料を持ってるので先生に送ると約束した。
 ホテル側は東芝の社長と聞いて、鈴木支配人がチェックインする原田音二郎を元・経団連会長の石坂泰三と勘違いして、最高のもてなしをした。
 社長は「この部屋も露天風呂も、贅沢すぎるぜ」と云ってたが、黙って其の侭にしておいた。
 案の定、予約どおりの料金で割増はなかった。早とちりした鈴木支配人が機転を利かせ粋な取り計らいをしたのだろう。原田氏は、本人が見ても見間違いするぐらい石坂氏に実に良く似てる。
 この時の鈴木支配人は後に東京ヒルトンにスカウトされ、更にホテル・オークラの役員にまでなった優秀なホテルマン。