ところが、これが裏目に出て、長男の達頼は良家の娘を娶り義兄の世話で半導体関連の工場経営を任されたが、会社をつぶし離縁され、次男の幸二は中州のバーの女と駆け落ち、3男の紘和に至っては事もあろうに、叔父の中村暁氏の経営する大亜レントゲンの売上金を着服し勘当され、今では、知る人ぞ知る博多のアンダーワールドを取り仕切るやくざの親分におさまっとる。
ジェットの鷹に言わせれば「レントゲン一台飲んだ男」。高額な医療器械に相当する金額を、叔父から盗んだ男。この紘和が大分に居た頃、ワイを「ワイは大阪の子や」とからかい半分、そう呼んでいた。それで、この物語の一人称にワイを使こてるんや。やくざの親分、おおきに有難う。
彼は気風のいい男で、東芝商事サービス課で下請担当者をしていた佐藤なんかは、どっちが下請か判らんぐらい、中村紘和に尻尾を振っとった。
工農装置営業課長の長崎邦男さんは、サービス担当の頃、父親の省三氏に頼まれ、福岡サービスステーションで中学生の紘和に数学を教えていた。
長崎さんは大分県佐伯にある御手洗病院でレントゲン据付出張の滞在中にも、御手洗先生の高校生の子息に勉強を教えていたらしい。
御手洗先生の実兄はキャノン創立者で、元々は海軍の産婦人科医?(帝国海軍には女性は居ない筈)。あっ、そっか。海軍病院や病院船には看護婦が居たか。
長崎さんの教えた富士夫氏が、20年間にわたるアメリカ・キャノン社長の任期を終え日本に帰国後キャノン本社社長として世界最良三経営者の一人に選ばれた。
その長崎さんに、大分市にある西日本電線に工業用非破壊検査X線装置の売込訪問レポートを提出したら、正確でないと突き返された。彼曰く「海軍では、正確な砲撃をしなかったら、敵艦に撃沈されて死ぬのだよ」と、諭された。
ワイが駆け出しの頃、長崎さんが大阪に転勤、ワイの直属の上司の本田辰造と見解の相違からの口論はものすごかった。本田少佐は陸軍士官学校卒でノモンハンの勇士、長崎さんは海軍兵学校卒の海軍魂。いづれ劣らぬ軍人同士。
ワイが扇町の大阪プールで飛込の指導を受けてた小柳氏(ベルリン・オリンピック出場選手)は、本田さんの旧制中学同級生で仲が良かったとか。
学校を出たばかりのワイは本辰の尻についてまわり仕事を習い、当時発足したばかりの西本レントゲンの西本春男社長とリヤカー引いて、阪大病院にX線管を納入に行ったりしてた。西本さんの長女で、いたずらっ子の幼稚園児の延子ちゃんに「いらん、てんごしたらオソソ引き抜いたる」云うたら「おっちゃんのアホ」ぬかしくさった。社長が「長男が医者になってしもた、延子が男やったらなあ~」と嘆いてた。「なんで女やったら、あきまへんねん延子ちゃんを社長に育てなはれ」と励ました。
同志社を出てニューヨーク大学で学び、今では社名も改めエルク・コーポレーション、東証一部上場会社の女社長。えらいやっちゃ!
「これで、浪花男の春男さんも安心して死ねまんな」云うたら、「あほ云うな、まだまだ死ねるかい。いろいろ色氣出して人生劇場これからじゃ」云うとったけど、ほんま、どえらい親娘でっせ。
九大病院の正門前に、シーメンス発売元・後藤風雲堂の九州総本店があった。戦時中には支那、満州、朝鮮にも手広く商売し戦後は福岡に引揚げた安藤さんに、おやじは朝鮮で世話になった。