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繁田一家の残党=ハナブサ アキラ=(17)

 ワイは鳴尾小学校では、巨人のキャッチャーで3番打者の藤尾やらホームラン王にもなった阪急の中田と同じチームにいて、今津中学でファーストミットを盗まれて水泳に転向するまでは野球選手やった。
 手始めにサービス会社と試合をしたが剛球投手に抑えられ、ぼろ負けした。
 おやじには「ボールとバットの間が1メートルも空いとる」と、ぼろ糞にやじられた。福岡支店からも八女工業出身の徳永選手は、東芝グループ野球大会に出場。
 東京の神宮球場で盗塁したらオーバーランして、あんな立派な野球場でプレーしたのは初めてで、滑り込みにブレーキがかからなかったとこぼしてた。
 おやじが、当時黄金時代の西鉄の選手と親しかったので平和台球場によく行った。劇的な逆転で西鉄が日本シリーズに優勝した瞬間、興奮したファンがグランドになだれ込み「高倉選手のグローブがなくなりました」とアナウンスしてた。
 前任の亀沢支店長は、天神町の松屋ビルから出てショールーム付きの社屋を構えたが、おやじは「スカッとしたビルに入ろうや」と、ラーメンの父親で長崎県商工部長兼長崎県産業貿易公社社長の世話で、人参町に新築された同社ビル(通称グリーンビル)の6階に入居した。8階にはヤクルトが入居していた。
 住吉神社の向いの辺鄙な場所だったのが、近くに博多駅が移転され市内有数の一等地になり便利になった。
 支店引越しの日に、唐津済生会病院の院長と事務長が来社されたので、ワイは座頭市と一緒に接待し酔いつぶれて寮に帰らず市村さんの天神町のアパートで寝過ごし、二人とも引っ越し作業をサボり、作業打ち上げの飲み会で、おやじに「みんなが汗だくになって重労働をしてる時に、飲みすぎて引越しを手伝わんとは何事か。そんな商売なんかロストしたほうがよっぽどましじゃ。顧客も重要やけど、社内の結束を固めるのが先決じゃ」と、ひどく叱責された。
 みんなも、うなずいてた。ワイもその通りや反省し、悪かったと土下座した。それから後は、例のとおりの酒盛りで、念願の社屋引越しを果たしたおやじは上機嫌で夜の街へと繰り出した。
 亀沢氏は百歳を過ぎ未だ健在、鶴は千年、亀は万年とはよく言ったもの。
 九州は引揚者が多く、仁科は上海から、大津は満州、同期の池田清司は朝鮮。亀さんは北京と台湾に勤務の経験があり、特に北京が気に入ったのか話をよく聞かされた。
 ワイが入社した時、亀ちゃんが大阪支店長をしており世話になった。
 大阪時代には、台湾で亀さんの許でサービス担当してた籠谷という課長が居た。このおっさん、飲めないくせに酒が好きで、阪急電車の梅田駅の改札係りの番台に上がり込み、切符切りをやって軽犯罪法違反で一晩入りよったんで、曽根崎署に貰い受けに行ったことがおましたなあ。
 福岡支店では元支店長の松原参与と前支店長の亀沢参与が、飽きもせず出勤していた。
 松原さんは、岩屋先生の世話で別府の病院でレントゲン技師になったが、亀沢参与は歩合セールスマンとなったので、その頃には未だ営業所のなかった佐賀県全域の開業医からの引合をすべてまわしてあげた。