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特別寄稿=追悼 小山昭朗氏=戦後移住開始50周年祭などの貢献振り返る=アチバイア市 中沢宏一

2015年6月12日にサンパウロ市内ホテルで行われたブラジル日本商工会議所の定例昼食会で、「日伯・友情の森―2015」植林事業に関して説明をする小山さん

 戦前戦後を通して、ブラジル日本移民は主に農業移民でありましたが、1961年(昭和36年)から工業移住が始まり、1967、68年をピークとして3014人(主に独身)が移住しました。
 正にブラジルの近代化 工業化の時代で70年代の「ブラジルの奇跡」と呼ばれた躍進の時代に彼らは多方面で活躍されました。その仲間が1978年、ブラジル工業移住者協会を設立、小山昭朗氏は1990年に二代目の会長に就任しました。
 2002年4月、私が県連会長就任直後、2003年が戦後移住開始50周年の節目に当たることから、戦後移住50周年祭開催を思いつき、先ず面識はなかったが工業移住者協会会長の小山氏が経営するゴルフ専門店を訪ね、相談したのが第一歩でした。
 南米産業開発青年隊協会の菊地義治氏も賛同してくれて、両兄貴分には助けてもらいました。コチア連絡協議会、ブラジル東京農大会、東山研修生会、沖縄開発青年隊とでブラジルニッポン移住者協会を設立し、準備に取りかかりました。
 先輩格である小山氏は東京育ちの江戸っ子、学生運動の戦士の熱血漢で、それにプロジェクト作成はピカ一、コンピューターは使えるし、本当に頼りになる兄貴でした。
 ブラジルではモトラジオ社など経験豊かで、政府機関、商社にも顔が利き、小山氏のお陰で多くの難局を解決して前進することが出来ました。
 私は県連の総額30万の郷土料理芸能祭り(日本祭りと改称)で12万の赤字を抱えていましたが、式典会場を日本祭りで挙行することに決定しました。一年の時間しかない状況でしたので、充分な根回しも出来ずに邦字新聞、世間から大変な批判を受けました。

小山さん(右)と中沢さん(中沢さん提供)

 発会の折、小山氏の次のような意見が紙上に載っております。「大変な批判もあり、意見もありますが、戦後移住50周年を機会に、いままで社会の貢献度が薄いと批判されて来た我々戦後移住者が、ようやく仕事も次代に渡し、時間的・金銭的に少しばかりだが余裕ができて、さて、社会のために何をすべきか考える時が50周年という節目の年と言うべきではないか。一人でも多くの人が参加して記念行事を盛り上げたい。いろいろの意見もあろうが、戦後移住者という共通の立場に立ってコロニアを見つめ、将来の展望を考えて行きたい。地方でも記念式典をそれぞれ開催して意義を高めて欲しい。そしてこの行事が百周年へのステップとなることを期待したい」。

 さて日本の関係機関への挨拶と海外日系人大会でのアピールのために3人で訪日しました。東京は小山氏の地元、大変お世話になりました。お陰さまで4人の知事、2人の副知事、議員、ふるさと創成団など約300人が日本から参列して下さり、盛大に記念式典を挙行出来ました。
 記念行事も順調に進んだところで2004年、小山氏にバトンタッチをしました。記念行事の一環として「イペーと桜の植樹」があり7箇所の公園に植樹しましたが、小山氏はその流れをブラジル原産の樹木の植林に替えてオイスカ、などと協力し合って継続して行きました。

「イオンの森」(岡田財団)

 「21世紀の森」「日伯友情の森」「日伯絆の森」と巧みに名称を変えながら、経団連自然保護基金、国土緑化推進機構、岡田財団、そして 三菱などの多くの企業 個人から協賛金を集めて森作りの植林事業を展開して行きました。
 その成果がサンパウロからグアルーリョス国際空港へ向かうと左側のサンパウロ州政府の「エコパークの森」です。ブラジル日本移民百周年記念事業の一環として、オイスカとブラジルニッポン移住者協会が主となって植樹をし、手入れをしました。
 それが今、見事な森を形成しております。小山さん、本当に有り難うございました。心から誇れる遺産を遺して下さいました。
 ところが、国として最重要な「空の玄関」の緑化をブラジル原産の樹木で森林化させた立役者の一人、オイスカのオズワルドさんが昨年亡くなり、この度は小山さんが亡くなりました。まだ早い、何故に・・・誠に残念です。
 小山さんは日本の伊豆に老後のための別荘があり、昨年訪日する予定がコロナ禍で出来なくなり、来年早々に予定していたのに帰らぬ人となりました。
 移住者としての貴殿は実に見事でした。心からご冥福をお祈り申し上げます。