ホーム | コラム | 特別寄稿 | 特別寄稿=アルゼンチン日系社会史=移民初期の事業活動=適応の戦術:家事労働者(料理人、メイド、運転手、庭師など)から商人(カフェ、洗濯店)まで。=アルゼンチン日系社会史料館 小那覇セシリア

特別寄稿=アルゼンチン日系社会史=移民初期の事業活動=適応の戦術:家事労働者(料理人、メイド、運転手、庭師など)から商人(カフェ、洗濯店)まで。=アルゼンチン日系社会史料館 小那覇セシリア

横浜正金銀行

上が横浜正金銀行ブエノスアイレス支店(1930年頃、AHCJA)。下が1919年のセマナリオ・ボナエレンセ紙に出た横浜正金支店の広告

 【らぷらた報知9月30日付けより転載】Yokohama Specie Bank Ltd.(横浜正金銀行)は、ブエノスアイレス市に支店を持つ日本初の銀行です。
 設立当初の広告では、ブエノスアイレスの都心レコンキスタ通り80に構えており、現在神奈川県立歴史博物館に保存されている資料に横浜市中央館の描かれた資料があります。
 この銀行は、国際貿易に外貨を提供するために1880年に誕生しました。当時これらの業務のための現金の需要が増加し、流通した紙幣よりも使用されていました。興味深いことに、この機関は、1865年に設立された香港(当時は英国の植民地)の金融機関である香港上海銀行(HSBC)を模範としたもので、当時の日本の海外貿易や外貨両替に大きな影響を与えました。
 1844年以来、横浜正金銀行は、日本の外貨両替を管理するために財務省によって任命され、その同じ年ロンドンに支店が開設しました。
 1887年、日本政府が運営に関する条例を定めたときから、日本との貿易が行われた世界中の各都市に支店が開設されました。
 1919年の広告では、全世界に大規模な支店網を持ち各都市のリストを見る事ができます。ブエノスアイレスの場合、支部は外交代表が発足した1918年に同時に開設されました。1946年の第2次世界大戦敗戦後、銀行は東京銀行に吸収され、1963年に最終的に清算されました。
 広告では、あらゆる種類の銀行業務を行っていることが発表されていますが、日本人移民とのサービスについてどの程度であったかは現在調査の段階にあります。
 1910年以来この国に住んでいる著名な農業生産者(研究者)である故伊藤清蔵博士が自伝の中で、経済問題の時に彼を助けたのはアルゼンチンの友人であると述べています。

急速な社会経済の上昇

 アルゼンチン社会における日本人移民の統合戦略に関し、興味深い現象がここで起こりました。
 20世紀初頭からアルゼンチンに到着した日本人は、商人と未資格者の二つのグループに分けることができます。しかし現実には二つのグループは、分類するものではなく、相補性の関係が成り立っていました。
 ブエノスアイレスの日本の流行は、日本の芸術品や工芸品だけにとどまらず、国内の日本人職業(料理人、メイド、運転手、庭師など)にも需要を生み出しました。これはそれまで未熟練の仕事、南部地帯の工場等で、若い従業員にとって重要な市場を開きました。
 この新しい労働市場は、アルゼンチン社会の統合へも促進となり、このように、移民の非熟練労働者から自営業者への移行は比較的急速に行われ、最初移住者はバラカスとボカ地区の長屋で非常に厳しい生活を送っていましたが、のち国内のサービス市場の仕事により、お金を節約し自営業者となり、市内の他の地区に家を借り始めることができる様になりました。
 主に西部では、モソや洗濯店の従業員として働いた後、カフェ店をオープンし、最終的には都市部の主要な独立した職業の一つとなりました。
 1920年代モソとして受け取ったチップだけでも、沖縄教師の給料よりも多く稼いだと沖縄県の元教師は語っていました。
 1935年の日本人の状況に関する佐藤史郎のアルバムにより提供された情報では、入国から開業また独立した商業や農業活動が始まるまでの平均期間はわずか10年であることが記されています。
 自営業になり、カフェや洗濯店または、タクシーとして車を所有するには、資本が必要でした。このため、正式な金融機関よりも、頼母子または無尽として知られる非公式の貯蓄貸付組合の慣行が、日系社会の多くの経済発展には必要なシステムでした。
 主に信頼に基づくこれらの貯蓄メカニズムについて実施された研究はありません。それらはすでに中国で伝統的に開発された慣行であることが知られていますが、そして世界中のさまざまな社会でのそれらの存在の研究があります。
 社会学者のアレハンドロ・ポルト博士が米国のラテン系コミュニティで行った研究でさえ、これらの慣行の採用が成功していることを明記しています。サンパウロ大学グスタボ・タケシ谷口博士によって進められ、2020年公開されたサンパウロ市のリベルダーデ地区における頼母子の役割に関する調査には、情報が記されています。

現在も続く聖市ビラ・カロン区の頼母子講

頼母子講

 谷口博士によれば、日本で最も古い参考文献の中には、鎌倉時代(1192年~1333年)からのものがあります。
 テキストの中心的な議論、サンパウロで移民によって行われた経緯では、リベルダーデ地区の日系商業を強化するため重要であったということで、これらの頼母子講を社会制度の代表として研究する事は、経済的合理性が現す形態以上の価値が有り、そこには社会および歴史、文化的側面の中心的な意味あいは、あまりないと分析されています。
 1937年から1945年の間に強くなったブラジルのナショナリズム政治や、エリート階級が強くもっていた日本人の不同化懸念「黄禍論」によって、日本移民の経済活動が阻まれることにより、頼母子講の重要性がさらに高まりました。
 この点で博士は、頼母子講はサンパウロでの日本人移民のグループ内の連帯、相互扶助、規則の制裁、機会の剥奪、先入観の存在に関連する一連の要素を含み、著者によると民間社会組織の生産や維持を保つために日本人によって練られた戦略であり、現在も大勢から認められている金融システムだと指摘する。
 戦後、頼母子の実践は、日本人とリベルダーデ地区の子孫の商業施設の開発と維持にとって根本的に重要で、なにより運転資金の形で適用されるかなりの金額の入手を可能にしたからです。
 提示された証言の一つ、1960年に家族とともに州北部の農村地域からサンパウロ市に移住した移民に関するものでは、頼母子講のおかげで、保証が必要な銀行に頼る事無く、開業のための資金を得ることができた事でした。
 では私たちの国の場合に戻りますと、ブエノスアイレス市の地域でも、確かにこのシステムのおかげで多くのカフェや洗濯の店舗がオープンし、第2次世界大戦前から特徴的な移民チェーンが生まれ、アルゼンチンでの日本人コミュニティの形成は、移民を許可しアルゼンチンに移民者が到着してから数年で、仕事、言語を覚え文化的慣習を習得し、また信頼に基づき、これらの非公式のシステムを通じて資本を入手して自営業者として活動を開始することさえありました。
 日系集団の歴史的資料から、これらの非公式の協会、それらの類型学、社会的ネットワーク、およびアルゼンチンに基づく結果を研究するために、頼母子講での非公式の記録を探しています。