実兄の徳山一郎氏は、九大第一内科助教授で次期教授の有力候補、NHK福岡支局の嘱託医でもあった。福岡支局の診療所でレントゲン更新の話があり、コネ探しの結果おやじの又従兄で本社にいた歌橋さんに頼むことになった。
歌橋氏は、NHK論説委員の館野守男と同盟通信で共に働いた間柄。
商談はスムーズに運んだが、招待ゴルフで一郎先生は春日原のコースで落雷に直撃され亡くなられるという不幸に見舞われ、以後、国家公務員はウイークデイのゴルフは禁止された。先生の未亡人が、現在の高知県知事・橋本大二郎夫人。
メデイカル関係の接待攻勢は医療機器関係も医薬品関係もとにかくすざましい。お得意様のあとあとまで面倒をみなければライバル会社に出し抜かれる。
ローマで開催された放射線科の世界学会で岩屋先生から「シーザーが入浴した風呂の石を、蹴っ飛ばして取って来い」と命令されたワイは、見つかれば国宝窃盗罪の逮捕覚悟で従わざるを得なかった。
ワイは福岡を離れる前に、田中聡子が寄宿してた八幡製鉄の黒佐監督の自宅を訊ね、台湾転勤を告げた。「なつかしいなあ! 戦時中は海軍で高雄に居たよ、遊びに行くからよろしく」と大喜びされた。
翌年、早稲田対オール九州の水泳大会が長崎県営プールで開催され、通告員席でアナウンスしてるワイに、オール九州監督の黒佐さんが、にこにこして「ここが台湾か?」とひやかされた。
片や早稲田監督の藤岡達項氏は日立レントゲン本社の営業部長で、ワイとは仕事上ではライバルだが水連では理事仲間。
けったいなめぐり会いわせ、ワイは黒佐、藤岡の僚友と三人で思案橋近くの料亭・花月で坂本竜馬の刀傷のある柱を背に実にうまい酒を飲んだ。
ワイは、昭和41年年末神戸出帆のブラジル丸で日本を発った。
おやじからの連絡で、大阪支店や神戸営業所の仲間や長大放射線科の山下医師も見送りに来てくれ、母校・大阪府立大学の水泳部からも大垣昌弘部長はじめ懐かしいチームメート達も駆けつけてくれた。別れテープを笑顔で切れば、何故か晴着姿の矢野久美子さんがテープの端を握り締め、意味ありげな眼で船上のワイを見ていた。
次の日にブラジル丸は横浜に寄港、3日間停泊したので早朝に親会社・東京芝浦電気新社長の土光敏夫氏を訪ねた。
その日は予定が詰まってるので、夜に鶴見の自宅に来いといわれた。
その夜、ワイは土光氏の家で「社内で海外進出を提言しても、常務の今井春蔵に時期尚早と握りつぶされた。今行って売らなければ手遅れになりライバル会社に先を越される。時機を待ち順番がまわってきて年老いてからでは意欲も衰える、だから移民になってでも今行って市場開拓する」と啖呵をきって船に戻ろうとした。
すると「気に入った。その提案しかと承知した。俺も定年後はブラジルに移住して百姓になり、晴耕雨読するつもりだ」と、励まされ、百万の味方を得た気分で旅発つことができた。
土光氏は、リオに造船所を建設した石川島播磨重工からスカウトされ、東芝の社長になったばかりで、始業前の早朝には社員の誰にでも会うと公言していたので、ワイは駄目元で会いに行ったんやが瓢箪から駒が出た。