おやじもワイに遅れること3ヶ月で会社を辞め、東京に事業を起こしていたのでスキャンダルには巻き込まれなかった。
石崎社長は豪勢な接待するくせに意地汚いけちで、ワイらと内輪で飲む時には徳利も使わず、石崎器械店佐世保支店長の越智さんが店のフラスコで酒を飲ますので、小便を飲んでるようで、肴までまずくなるとワイの部下のラーメン君と話し合ったたもんや。
神戸の移民収容所で1週間過ごし、同じ船に乗る福岡県岡垣村から来た大村夫妻と親しくなり、ご主人の二人の妹さんを大阪の千日前に案内してあげた。
これから2ヶ月近くの船旅は、ワイの生涯のハイライトや。ご馳走攻めに至れり尽せりのサービス、演芸会や運動会の楽しい企画、楽しかった船上生活は、今思い返しても悔いのない希望に満ちた海の旅。
われわれ移民の他にも、アメリカに行く脱サラの若者、不良外人のたぐい、ベトナム徴兵を逃れてきた韓国人など、船客は世界情勢の縮図を見るようだった。
農業移民の戦前や、戦後も最近までは移民船の食事は刑務所より悪かったのが、工業移民の始まった頃から待遇改善された。
そやけど、朝から洋食を出され大半の移民、特に田舎のおっさん、おばあちゃんから文句が出て早速、次の日から和朝食も選べることになったが、ミズリー州に帰るアメリカ人の男が味噌汁をコーヒと思ったのか砂糖を入れて飲み、吐き出した。昼には麺類やサンドイッチが日替わりで供され、デイナーは3コースにデザート付の洋食で正装を求められたが、この規則を守ったのはワイと韓国人の催氏だけ。
横浜を出帆して間もなく観たテレビで、田中聡子の婚約発表のニュース。祖国を棄て、会社を辞め、恋人を失い、完全な自由の身になり開放感に浸った。
船内テレビで観る紅白歌合戦もこれで見納めかと、いささか感傷的になった。まさか、それから百回以上も訪日するようになるとは、夢にも思わなかった。
日本のテレビが入らなくなる海域に入り冬の荒れる太平洋上、船酔いする人が増えたがハワイに近づくにつれ気候も暖かくなり、デッキチェアーで本を読んだり小さなプールで泳いだり、思う存分リラックスできた。
ブラジル丸のチーフ・パーサー即ち事務長の本山多喜男さんは、実に実直な世話好きの人柄で、船客を退屈させないように苦心していた。先ず皮切りは演芸会。脱サラ組・関学出身の長島君が司会をした。彼は難波の高島屋本店でワイの大学同期生の枝沢の部下だったと云う。
枝沢君は取締役総務部長まで昇進したが総会屋との癒着で引責辞任し、中百舌鳥のコートでテニス三昧の毎日と聞く。
司会者と同室の紳士がトップバッターとして登場。詩の朗読をやった。場内が礼拝か葬式の様に、し~んとした後、2番打者は移民の引率者の藤原氏、ロカビリー調で賑やかに座を盛り上げた。後ろのドア陰から「藤原がんばれ~」と声を掛けてやった。
ワイは大阪園芸高校を出てアルゼンチンへ花の栽培に移住する小柄の大沢君に高下駄を履かせて、「跳び上がり五尺」という漫才をやり、やんやの喝采を受けた。ネタは、おやじの戦友で寮に来た時に京城での逸話を話してくれた跳び上がり五尺の小男からで、女のもとに通う男が邪魔になる子供に豆腐を買いにやらせる話。