繁田一家の残党=ハナブサ アキラ=(27)

 東芝現地法人社長・加藤氏の秘書で日系3世の山崎ルッシー嬢は「セニョール石坂の様な有能な人が、どうして父親の会社などに勤めなければならないのか理解が出来ない」と、不思議がってた。ミナスジェライス州で革命軍に入隊したという日本人の孫娘のルッシーは、慶応テニス部の先輩・山縣富士男(勇三郎の末子)を媒酌人に、野村貿易の駐在員の森原君と結婚した。婚礼に訪伯された森原君の父親は、野村系の大和銀行出身で極洋捕鯨社長。
 森原夫妻は、独立国のような城壁に囲まれた最高級住宅地アルファビレに住み、サンパウロでコンサルタントとして起業家指導をされている。
 石坂氏は、東芝社長・会長を歴任された元・経団連会長の石坂泰三氏の末子で、ハーバードを首席で卒業し、本人も「同級生が皆それぞれ自分の意志で2万5千ドルの年棒で就職して行くのに、会社の金で留学したので8千ドルの東芝に戻らなくてはならず、まるで詐欺にでもかかった様な気がした」と、云うような正直な人だった(当時の為替レート:1ドル=360円)。
 「会社を辞めると申し出たら、父親から恫喝され思いとどまったが、残念でたまらない」「あんたが、うらやましい、だけどブラジルのような世界経済の僻地で生涯を終えることなく、ビジネスの本場アメリカに行きなさい」と、ワイを激励してくれた。
 20年後に同氏が東芝アメリカ会長、ワイがGE国際商事本部長として、ニューヨークはマンハッタンにあるレキシントン・アベニューで一軒置いた隣のビルに勤務することになり、再会の喜びを分かち合ったことは云うまでもない。
 石坂さんは若い頃にGEに出向し、ワイの居る本社ビルで働いたことがあるとも云っておられた。
 「GEの社員教育は世界一。秘書を世話してくれ」と頼まれ、早速社内の情報を基に適任者を選んだが、石坂さんから「あんな真っ黒なのは具合悪いよ。あんたも知ってるように日本の会社だからなあ」。
 ワイは「石坂さん、アメリカで黒や白や言うてたら、あきまへんで」と答えたら、一本とられたと苦笑いされた。ワイの目に狂いはなく黒人女性のヘレン・パーカーは実に有能な秘書として働いてくれた。
 その後、信雄さんはロシア潜水艦事件で詰め腹を切らされ東芝を辞め、待望の他社勤務を実現し、マサチューセッツ州で国防関連のシンキング・マシーンを経営されてたが惜しいことに早逝された。生きておれば親を超える人物に間違いないものを、と悔まれた。
 当時発行された文芸春秋に「本社の会長・社長は無能・・」と書かれた記事が、でかでかと掲載され本社の逆鱗に触れ、いかに東芝中興の祖・石坂泰三の子息といえども退社せざるを得なかったのだろう。
 信雄さんは、決して外部に漏れないオフレコの約束でしゃべったらしいが、新聞記者にせよ雑誌記者にせよ、鵜の目鷹の目で特種を探してる職業の記者連中を信じたばっかりに陥れられてしまったのだろう。
 海外に進出しても日本企業の島国根性は直らないどころか、益々ひどくなる。アメリカではイギリス人、ドイツ人、カナダ人等がトップの会社は数多くある。日本では、ようやく最近になって、アラブ系ブラジル人のカルロス・ゴーンが日産自動車の社長として、瀕死の会社を救った。