新年号
本紙や太陽堂、竹内書店、高野書店など日系書店で好評発売中の『共生の大地アリアンサ ブラジルに協同の夢を求めた日本人』(同時代社)の著者木村快さん(77、東京)を、10月に東京まで訪ね、発刊に至る経緯やそこに込められた想いを聞いた。新年が長野県人会創立55周年、信濃海外協会が創立した第1アリアンサ移住地が創立90周年という節目にあたることから、改めて移住地創立の経緯を見直してみた。ニッケイ新聞では同書のポ語版発行も進行中だ。
「僕は20歳ぐらいの頃、パラグアイに移住しようと本気で思ったことが一時期ある」。NPO劇団「現代座」(東京都小金井市)代表の木村さんは、多くの戦後移住者と同じく大陸からの引揚げ者だという。
「だから自分の中には、子供のころに異文化の中で暮らしていたという記憶と感性が抜きがたくある」。自らの内面を掘り下げる中で、内なる〃移民性〃のようなものに突き当たったようだ。
サンパウロ市に母方の親戚が住んでいる関係で移民70周年の1978年に初来伯し、三カ月間かけて移住地を廻った経験があるという。その経験が当時43歳、円熟した社会派演劇人の感性に強く触れたようだ。
「いったい日本人の民族性とは何か、それは多文化との関係性の中でこそ考えなくてはいけない。多文化という視点から過去の日本人の行動を振り返る必要があると思うようになった」との流れから、ブラジル移民の30年ぶりの帰郷を題材とした演劇作品『もくれんのうた』が生まれた。
その作品が日伯修好百周年記念行事に選ばれ、劇団「現代座」は1994年に来伯し、約1カ月かけてサンパウロ州を中心に全伯11都市で巡回公演した。終演後、「わたしたちのことを忘れないでほしい」と目に涙を浮かべながら俳優たちの手を握る移民らの姿があった。
木村さんはお礼のつもりで「何かお役に立つことがあれば」と尋ねると、「アリアンサ移住地では子孫のために正式な歴史を残したいが、日本側の公式資料が見つからなくて困っている」と相談を受けた。
帰国後に調べると、《実は戦前の移住資料は散逸してしまい、日本にはブラジル移住史の専門家がいないことを知りました。移住博物館でも「戦前の資料は扱っていません」と言われ、途方にくれました》(『共生の大地』チラシ)という。《戦前、国策で20万人以上もの移住者を送り出し、現在はその子孫を20万人以上も労働力として導入していながら、そんな歴史は知りませんという国があっていいのだろうかと悩みました》(同チラシ)との真剣な言葉が躍る。
まさに日本側では数少ない「移民とは」を考えた人物ならではの感慨だ。そこで一念発起して「アリアンサ史研究会」を設立し、資料発掘を進めながら「ありあんさ通信」を発行して報告し始めた。94年、95年、96年、97年、2000年、03年と六度にわたって来伯し、計1年間も聞き取り調査を重ね、集大成として同著を執筆した。
頭山満や新宿中村屋と力行会の関係
アリアンサは、移民が土地購入資金を出し合う形で参加し、どう村を運営していくかをみんなで話し合いながら決めていくという「協同組合」方式による最初の民間移住地だった。それは大正デモクラシー全盛期の流れを汲んだ発想であり、実際に大正13(1924)年10月の土地購入をもって創立した。
建設運動の中心になった日本力行会の支援者には、大正期の文化人が集まることで知られた「新宿中村屋」の創業者、相馬愛蔵(あいぞう、長野)・黒光(こっこう)夫妻もいた。西洋列強から植民地化されたアジア諸国の独立運動を手伝っていた玄洋社の頭山満らは、孫文はもちろん、インド独立の亡命志士ラス・ビハリ・ボースも応援していた。
そんな頭山の依頼を受けた相馬は、1915年にボースをアトリエに匿い、その縁で娘俊子がボースと結婚した。それが縁で、純インド式のカレーライスが日本で初めて発売され、「恋と革命の味」として有名になった。
そんな相馬夫妻の四男文雄は1927年にアリアンサに入植している。やはり民族的な熱い想いが受け継がれていたに違いない。のちに粟津金六の「アマゾン第1回調査団」に加わり、マラリアに罹ってマナウスで亡くなった。『曠野の星(第100号)には「アマゾン先駆者の墓」(12頁)との一文があり、愛蔵は文雄がアマゾンに倒れたと聞くと、頭山に頼んで「相馬文雄の墓」と揮毫してもらい、日本で大理石に刻んでそれをアマゾンまで送って建てさせたとある。
当時の大正期を象徴するような入植者は、次のように枚挙にいとまがない。
与謝野鉄幹、新渡戸稲造の甥らも続々と入植
同移住地研究者の渡辺伸勝さんは「海を渡ったデモクラシー」(『地理』2008年10月号、特集ブラジル日本移民百年、古今書院、東京)のなかで、「大正デモクラシー期の政治・文化・社会の特徴を体現する人びとや、この時期に活躍した人物の関係者が数多くアリアンサ移住地に移住している」(64頁)と書き、その具体例として次の人物名を挙げる。
高浜虚子が中心となって盛り上げていたホトトギス派俳句では、彼の愛弟子である佐藤念腹(謙二郎)が1927年にアリアンサに入植した。東京帝大工科を卒業した橋梁技師の木村貫一朗(圭石)も同派俳人で、1926年に移住した。短歌界では、アララギ派の島木赤彦に師事した岩波菊治も同年に入植し、この3人が中心になって当地最初の文芸雑誌『おかぼ』を創刊した。
1928年に入植した与謝野素は、詩人の与謝野鉄幹の甥であり、農業技師として活躍した。
その他特色のある人材としては、台湾総督府の官吏をし、移殖民研究をしていた渋谷慎吾(東京帝大法科卒)も1928年に入植した。
民本主義の提唱者として有名な東京帝大法科の吉野作造の姪、吉野友子も女子師範学校を卒業して1928年にアリアンサに入った。移住地を離れてからは邦字紙初の女子事務員となった。
そして、そんな時代性を最も代表する人物といえば弓場勇だ。弓場農場建設にいたる詳しい経緯が『共生の大地』に描かれている。1931年入植の太田秀敏は新渡戸稲造の甥にあたり、「新しき村」構想の創立メンバーとなっていった。
つづき → 国際派人材とブラジル移住=大正デモクラシーの流れ