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ぷらっさ=奇遇

サンパウロ 富田博義

 去年WBCの日本での一次予選にブラジルが出場した時、その応援に日本へ行った60歳代の応援団が、日本の国立シニアチームと東京ドームで試合したと聞いた。国立市は私が通った高校のある立川市の隣の市なので大変懐かしかった。
 そのチームが今度ブラジルへ来たというので、4月19日に見に行った。私もオールドボーイ野球をしているが、高齢と技量不足で選抜軍には入れないので応援に行った。
 第1戦、国立シニアチームは旅の疲れも見せず、ブラジルシニア選抜軍に2対1で勝った。試合後にベンチへ行って自己紹介したら、都立国立高校野球部OBはいなかったが、立川市の都立昭和高校OBがいた。
 歳を聞くと王選手と同年と言うではないか。それなら早実の王投手の球を打ったことがある私と同年だ。私はせき込んで、多分あなたと試合をしたことがある、と言ったが彼はその試合を覚えてなかった。74歳の今まで野球をする野球狂の彼にしては、高校野球の思い出は私ほどではなかったようだ。
 数えてみたら57年前の昭和32年(1961年)、高校2年の夏の甲子園大会東京都予選で、昭和高校との試合でノックアトされた苦い思い出があるので忘れないのです。
 3日前の対強豪学習院校戦に5対0で勝っていた。9回裏に2点取られてまだ無死満塁で、私がリリーフさせられて運よく失点1に抑え、5対3で勝ったので昭和高校を弱敵とみた監督は、当時遊撃手の私に先発させた。
 3回までゼロに抑えたが4回に5点取られてノックアウトされたのだ。これが悔しくて忘れられなかったのだ。幸い3年生のエースが後を押さえて、打棒がふるって17対5のコールドゲームで勝ったのだ。
 狂のつく高校球児の私は、出場全試合の新聞を切り抜いて持っていた。それは私の唯一の宝物なのだ。家に帰り早速それを見たら、なんと昭和高との試合の切り抜きに、国立シニアのキャッチャー北島選手の名がメンバー表にあるではないか。
 次ぎの20日に、その新聞切り抜きを持って行って、北島選手と話をした。ただコールドゲームなので、北島選手にはそれでも見るかどうかを先ず尋ねて、それでもよいと言うのでお見せした。
 そして57年前の、1年360日位、雨が降っても雪が降っても練習した頃の話をしたのでした。彼もはるばる来たブラジルで、17歳のころの高校野球で試合した相手と会おうとは思いもしなかったと、大変感激していた。
 我々のチームの大矢さんが生涯野球(72歳)を実践しているが、それを日本まで輪をひろげる話を国立シニアにしたので、近い将来北島さんとは今度は試合で対戦することを誓って別れたのでした。

 (2014.4.26掲載)