ホーム | 連載 | 2014年 | パウリスタ延長線戦後史1=子孫にとっての勝ち負け抗争 | パウリスタ延長線戦後史1=子孫にとっての勝ち負け抗争=(4)=米国の排日プロパガンダ=宣戦布告前から敵性移民扱い
サントス強制立ち退きを報じる1943年7月10日付ア・トリブナ紙
サントス強制立ち退きを報じる1943年7月10日付ア・トリブナ紙

パウリスタ延長線戦後史1=子孫にとっての勝ち負け抗争=(4)=米国の排日プロパガンダ=宣戦布告前から敵性移民扱い

サントス強制立ち退きを報じる1943年7月10日付ア・トリブナ紙

サントス強制立ち退きを報じる1943年7月10日付ア・トリブナ紙

 ツッパン公聴会でアドリアノ・ジョーゴ委員長は、戦中戦後の日本人差別が、勝ち負け抗争勃発の一因になったという考え方を公式に認めた。
 「ヴァルガス独裁政権は元々親ドイツ、イタリアだったが、1942年に米国との関係を大きく修正した。米国から製鉄所建設、フェルナンド・ノローニャの空港、ナタールの空軍都市化(米国が南大西洋に展開する拠点)への莫大な投資をしてもらうことと引き換えに、ブラジル政府は連合国側に入ることを承認した。その結果、特に日本人、ドイツ人はまるで政治犯のように迫害されることになった」と伯米関係の歴史を振り返った。
 戦前戦中の米国による排日プロパガンダにも触れ、当時のブラジル国民はその強い影響下にあったことも深く関係しており、勝ち負け抗争はけしてコムニダーデ内部だけの問題ではない、との考えを同委員長は証言した。
 本紙・深沢正雪編集長も証言台に立ち、次の報告をした。1942年1月にブラジル政府は日本など枢軸3国と外交断絶・経済断交をした。これは外交的手段として現在も良く使われるものであり、これだけでは〃敵国〃とはいえない。ドイツの潜水艦攻撃で2月から8月までに19隻のブラジルや米国商船が沈められ、死者が1千人以上に上ったことからブラジル国民に怒りが湧きあがり、同年8月22日にブラジル政府は実際に対独伊宣戦布告に踏み切った。
 しかし、対日宣戦布告が出されたのは、実は1945年5月7日だった――との事実関係を報告した。45年5月までの日本移民は、独伊と同じレベルの〃対戦相手(敵国)〃ではなかった。にも関わらず、白人系のドイツ、イタリア移民と比べて明らかに顔立ちが異なり、文化も違う日本人は官憲から特に迫害対象にされた部分がある。
 その流れの中で、1943年7月7日にサントス市地域に住む枢軸国人の24時間以内の強制立ち退き命令がDOPSから出された。
 サントス港沖合いでブラジルと米国の貨物船5隻がドイツ潜水艦に沈没され、ブラジル軍当局は港湾地帯に住む枢軸国人のスパイ行為との見解をもち、日本移民全員と、ドイツ移民が立ち退き対象とされ、イタリア移民は外された。病人も含めた6500人以上の日本移民は財産の処分はおろか、身の回り品すら持ち出せないまま、サンパウロ市の移民収容所に送られた。渡辺マルガリーダ女史が創立した日本人救済会がその支援に尽力した。
 米国による排日プロパガンダ、ヴァルガス独裁政権の戦中の日本移民迫害という歴史的な歪みが、当時の同胞社会に強い社会的なストレスを生んでいた。日本人敵視・差別という強い社会的圧力が「日本が勝てば、将来ブラジルに報復できる」「日本に負けてほしくない」という集団願望を生み、「負けているはずはない」という信念に結晶して、勝ち負け抗争の素地になった――という認識が公聴会では確認された。
 従来の「愛国心に狂った日本人が認識派要人をテロで殺害した」という、同胞社会内で自己完結した歴史観とは異なる見方といえる。
     ◎
 DOPSから禁書にされた岸本昂一著『南米の戦野に孤立して』には、サントス強制立ち退き者のその後に関して、こう書かれている。
 《かくして数百人の一団は、パウリスタ延長線のマリリア市へ、他の一群はノロエステ線のリンス市へ、また他の貨物車に封じこまれた人々はソロカバナ線のパラグワスー市へと、云うふうに大きな駅々へ下車させられ、目下戦争で労力不足の耕地へ送られ労働させられた…》(41頁)
 10年、20年とコツコツ築き上げてきた財産を、二束三文で売り払わらなければなかった移民の無念が、それらの地はこもったはずだ。そんな地に勝ち負け抗争の白熱地がいくつも含まれるのは偶然なのか。(つづく、深沢正雪記者、敬称略)