サンパウロ市から西北方向に約1千キロ離れた南麻州ドウラードス市は、パラグアイとの国境付近に位置する。その周辺には、戦後移住の先駆けである松原移住地があり、和歌山(クルパイ)植民地の入植者も向かった場所だ。入植者の多くが和歌山県南部からの移住者だった縁があり、1953年の入植から61年目の今年4月、仁坂吉伸・和歌山知事をはじめとする50人以上の大型訪問団が訪れた。4月25日にドウラードス文協会館で行われた60周年式典の機会をとらえ、和歌山県人を中心に、ウラードス日系社会を取材した。(年齢は取材当時)
共栄移住地に移った谷口さん=母県との交流拡大に期待
「ここから先は何キロ行ってもミーリョ畑です」。南麻州和歌山県人会支部(会員約80家族)の代表、谷口史郎さん(73、帰化人)は4月25日、知事や山田正彦県議会議長ら県議11人、県庁、県議会事務局職員らが乗り込んだバスで、そう説明した。
その言葉通り、右も左も見渡す限りがとうもろこし畑だ。「ここの日系人は主に冬はとうもろこし、夏はトマトを栽培しています」と説明する。
谷口さんは1953年入植の松原移民の一人だが、1974年頃から共栄移住地(1954年創立)に住み始め、もう40年になる。共栄は現在、北海道出身の移住者が中心となって28家族で守っている。ドウラードス市内から17キロで、小さな移住地ながらも毎年入植祭を行い、今年で入植60周年を迎える。日本語学校もあるが生徒6人、先生は2人という体制だ。
松原移住地への入植当時の話を聞くと、谷口さんは「とにかく苦労が絶えなかった。ドウラードス川を筏で渡り、毒蛇におびえながら原始林を切り開き、2カ月かかって20キロの道を造った。20メートルの井戸も何度か掘った」という。
「最初は決して前途洋洋じゃなかった。今のファッチマ・ド・スール市から30キロ。原始林を切り開いて、測量したところを荷物持って入っていった。でも苦労は報われましたよ」と顔を撫でながら話す。
このとき13歳。川に橋ができたのは、移住3周年時のことだ。当時の州知事も祝福にやって来た。同地で5年過ごし、ドウラードスの商店で丁稚奉公をした後で、「やはり農業がいい」と共栄移住地に移り、土地を購入した。
大阪生まれで和歌山県清川村育ち。父・文太郎さん(ぶんたろう)は村長だった。ブラジル行きを決断した理由について「親は戦争のないところに行きたいと言っていた。僕は子供だったので、なぜ行くんだろうと思うばかりでした」と思い出す。「もうブラジルに来て60年。こちらの方が長い。ふるさとが二つあるんです」と笑う。
和歌山県人会の南麻州支部ができて5年目。創立後は4人の当地子弟が母県で研修した。「素晴らしいこと。せっかく灯った交流の火を消したくない」と子弟教育への思いは人一倍強い。「今はこちらの子弟を日本に送っているが、和歌山の子弟もこちらに来てほしい。ホームステイも喜んで受け入れますよ」と熱を込める。
仁坂知事の2回目の訪伯に、今後の交流拡大への期待を募らせている。「今後は産業面での交流もさかんにしたいですね」と笑顔をみせた。
60周年式典で喜びの再会=遠くに来ても県人の絆
4月25日にドウラードス文協会館で行われた60周年式典には、かつての松原移民やクルパイ移民の姿がたくさん見られた。クルパイ移民の浦敏さんは「サンパウロに出た人が多いね。でも今でも年に1回や2回、和歌山県人で集まっているよ。7、80人集まるかな。意識的に会う機会を作って横のつながりを保つようにしている」と話す。
高齢者表彰代表であいさつした岩畑公男さん(80、田辺市)は、1953年から81年まで松原移住地で過ごした。「カフェとか豚とか、ウーバ(ブドウ)とかをやってましたね」と訥々と語る。両親と兄弟6人で入植したが「霜が何度も降った。貧乏したのが大変だった。農業は根性がいるしね」と思い起こす。
広井菊子さん(81、田辺市)がまだ23歳の時、夫とその弟の3人で55年に来伯した。松原移住地に12アルケールの土地を購入し、コーヒー栽培や牧場を営んだ。7人の子供に恵まれ、今は娘夫婦と暮らす。州都カンポ・グランデに居を構えるが、移住地に残した農場まで片道4時間の距離をかけ定期的に通っている。
「水がなかったので、石油のドラム缶に水を汲んで、2キロの距離を往復した。それが一番つらかったわね」と思い出す。「こんな表彰をもらえるなんて思わなかった」とはにかんだ。
「遠くに来ても、和歌山県人だと思ってくれていることに感動しました」。そう笑う那須孝子さん(81、田辺市)も第一陣松原移民だ。来伯当時は20歳、1976年までいて、5人の娘に恵まれた。「椰子で葺いた屋根に住んでて、雨の日は雨漏り。三栖村(現在は田辺市)からは10家族来たね。私の家はみかん作りをしていたんだけど、父親が次男坊で、土地は多くもらえなかった。だから移住することにしたのよ」と思い出す。
「苦労したとは思ってない。みんな一緒だったからね。私の土地はよかったです。松原は良かった。今日はたくさん話ができた。マリンガーから来てくれた人もいるしね」と嬉しそうに繰り返した。