ニッケイ新聞 2012年1月12日付け
ブラジル被爆者平和協会(森田隆会長)の盆子原国彦副会長(71、広島)は、昨年10月にペルナンブッコ州で開催された4日間の反原発キャラバンに参加し、自らの被爆体験と共に福島原発の状況を説明し、参加者の反応から大きな手応えを感じたという。「現在の福島原発の様子を見ていると、日本政府は原爆の悲劇から何を学んだのかと言いたくなる」と憤り、「ブラジルには原爆も原発もいりません」と強く言い切った。
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ピカッと光った瞬間、5歳だった盆子原さんを父は机の下に押し込み、隠すようにその上に覆い被さった。爆心地から約2キロ離れた土木事務所は強烈な爆風と爆音に襲われ、あっという間に崩壊した。瓦礫を押し上げて外に出たとき、父の背中はガラスの破片などで血だらけになっていた。
爆心地となった広島市中心部に朝から勤労奉仕にいった母と、同じく中心部に学徒動員された姉とは連絡が取れなくなり、自宅は爆風で崩壊していた。隣人宅は屋根が丸ごと吹き飛ばされたが、畳は残っていたので晩はそこに寝た。「黒い雨が降って畳に染み込み、懸命に拭ったがあちこちに黒いシミが残っていた」。
翌日、父に連れられて爆心地に母姉を探しに行ったが、なんの痕跡も見つからなかった。「姉のクラスは、生徒も先生も誰一人遺体すら出てこなかった」という。
被爆した影響で子供の頃は身体が弱く、「小学校の時に肺病をやり、すぐに貧血で倒れた」という。全身に10円玉大のできものができ、緑色の膿がなかなか止まらなかった。身体が丈夫でなかったことから、むしろ「どこで死んでもいい。見たいところを見てやろう」と移住を決意し、61年、20歳で南米産業開発青年隊員として渡伯した。
その後、被爆体験を05年から当地の学校で講演するようになり、いままでに通算4千人近くのブラジルの若者に語ってきた。「話し始めても、最初はガヤガヤして聞いていない状態なのに、だんだん静かになり、徐々に姿勢が正され、真剣な表情を浮かべるようなり、最後には涙を流す生徒まで」と教室の様子が変化していくという。
生徒からの質問の多くは、「なぜアメリカが原爆を落としたのに、医療援護をするのは日本なのか?」というものだ。そんな時、盆子原さんは「日本は無条件降伏したから原爆の医療責任も負うことになった」と日本政府の代弁をしても、生徒は納得しないという。
「むりもない」と盆子原さん自身も思う。「僕もアメリカにこそ責任があると思う。原爆は老人、子供を含めた非戦闘員、罪もない市民を大量虐殺したからだ。人類初の兵器を実験したかっただけではないかと僕は疑っている」。
じつは盆子原さんは「差別されるのでは」という恐怖心から、移住以来長いこと被爆者だと公言してこなかった。被爆者協会が創立した1984年にも会員にならず、日本の巡回医師団が来伯健康診断を始めた88年に入会した。
体験談を初めて公に話したのは03年、広島でだった。ブラジルでは05年、森田会長から「一緒にどうだ」と誘われてからだ。
放射能は共通していても、原爆と原発は今まであまり共同の反対運動が展開されてこなかった。大震災以降、新しい方向性が生まれつつあるようだ。(つづく、深沢正雪記者)
写真=被爆者平和協会副会長の盆子原さん