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特別寄稿=望郷阿呆列車=ニッケイ新聞OB会員 吉田尚則=(2)=故郷でまず助走

ニッケイ新聞 2012年1月18日付け

 本邦初の旅客列車は1872年、周知のように東京・新橋—横浜・桜木町間の路線に登場する。陸(おか)蒸気と呼ばれた英国製蒸気機関車が客車10両を牽引し、文明開化の夜明けを力強く疾走した。
 ♪汽笛一声新橋をはや我汽車は離れたり〜 以後、全国各地へたちまち延びる路線に伴って、鉄道唱歌のほうもどんどん歌詞が増し、334番にもおよんでいる。
 ご当地演歌のように沿線の地理や歴史、名所などを七五調で紹介しており、ギネスブックものではあるのだが、そらんじている人がいるかは疑問だ。
 陸蒸気が第一声を上げてから半世紀、奥羽山脈の山間に息づくわたしの田舎でも鉄道敷設が始まっている。盛岡駅と秋田・大館駅をつなぐ花輪線。
 正式には岩手・好摩駅が起点となるが、その手前駅の渋民は、石川啄木の生地である。
 のち上京する望郷の詩人啄木は、はるか故郷にも通じる東北本線の起点上野駅を時折訪れたらしい。「ふるさとの訛なつかし停車場の 人ごみの中にそを聴きにゆく」は、ほぼ同じ方言圏で育ったわたしには忘れがたい一首である。
 その花輪線を振り出しとすべく、盛夏の日本列島に降り立ったわたしは、例年にない猛暑に襲われている東京から逃げるようにして秋田県の東北端、十和田湖にほど近い鹿角市花輪に帰省した。
 田舎でひと息ついてから、「望郷阿呆列車」に乗ったのは9月1日。ここではまだ、ジャパン・レイル・パスは使わなかった。
 レイル・パス(以下パスと略)についてごく簡略に説明しておこう。日本でJRを利用してあちこち列車旅行する人には、かなり割安で便利なパスだといえる。
 1、2、3週間別に使用期間が分かれており、わたしの例でいえばブラジルを出発前、まず1週間有効のパス交換クーポン券を購入、東京駅で二つに折りたたんだ厚紙のパスと換えた。これさえあれば、乗車券から指定券、特急券、新幹線も含めてすべてに通用する。
 わたしは自分の年と不慣れな旅行を考え、航空機でいえばビジネスクラス席にも等しいグリーン席を奮発したのだが、わずか1週間で可能な限り遠隔地まで行こうというのだから、旅程はかなり厳しい。
 わが故郷ながら、走行区間がごく短くグリーン車もない花輪線あたりで貴重なパスの1日分を費消するわけにはゆかないのである。
 旅の第1日目は、奥羽本線大館駅発午前6時57分の上り特急つがる2号の乗車から始まる。もっとも、この時間に間に合うように大館駅に着く鹿角花輪駅発の列車は、わずか1時間足らずの距離ながら、ないのだ。したがって大館に1泊しなければならない。田舎暮らしというのは、不便かつ金のかかるものだと、グチがでる。 
 ともかくも、長距離ランナーにとってはスタート前に軽い助走がほしいところだ。わたしも足慣らし気分で花輪線を助走区間とした。
 1日午後、薄曇りの鹿角花輪駅から今年が全線開通80周年にあたるという同路線(愛称十和田八幡平四季彩ライン)に乗る。乗車時に照井修一駅長から記念ボールペンをもらった。
 花輪線が一部開通したのは1920年で、辺鄙なローカル線にしては全国的にも早いほうだった。照井駅長によれば当時、産銅で全国有数の尾去沢鉱山が沿線にあり、インフラ整備の必要から敷設が急がれたようだ。殖産興業が国家的スローガンの世である。蒸気機関車3両を連ねた、3重連で奥羽山脈越えした時代もあった。