ニッケイ新聞 2012年1月27日付け
9月4日、午前6時半起床。中国路を一気に走破し、1泊とった小倉駅コンコースのステーションホテル・コクラ14階の部屋。広い窓からの眺望がなんとも贅沢な気分を誘う。
眼前の関門海峡に数隻の小船が行き交っている。その向こうに見えるのは彦島というそうで、名高い巌流島は彦島の後ろになり、ここから望めないのが少々残念だ。
憧れの九州上陸?である。昨日までやみくもに直進してきた「望郷阿呆列車」だが、ここらで気分を鈍行並みにし、九州人の表情なども眺めてみたい。九州の大地を行くにふさわしく大らかに、場合によっては大雑把にも構えてみたい。
小倉からは特急ソニック11号で日豊本線を下った。別府で九州横断特急3号に乗り換え、豊肥本線(阿蘇高原線)をたどって熊本まで行こうと思う。
突き抜けるように高い九州の蒼穹を思わせて車体がブルー一色のソニック号は、内部も斬新なデザインで明るくカラフルだ。ボディカラーといえば、九州横断特急は火の国熊本を表して真っ赤。 指宿枕崎線にいたっては車体を白と黒で縦割りに塗っているのだ。4日前、旅行開始時の秋田花輪線ディーゼルカーの地味な色合いが脳裏に浮かび、これが同じ民族の発想し得る色かと呆れかえる思いがした。
もちろん同じ民族であって、どこまで行っても市街地続きの列島に溢れかえるように暮らす1億3千万のその日本人が、阿呆列車の車窓に様々な表情を見せて往来している。
沿線は、大分県に多い竹林から熊本県に入って杉が増えたが、わたしは日本人についての瞑想を深めた。いったい、日本人は何処から来たのだろう。
以前読んだ『人類の足跡—一〇万年全史』(草思社刊)を思い出した。著者の人類学者スチィーブン・オッペンハイマーは、同書の巻首に「自分がどこへ行くかを知るためには、自分がいまいるところを知らなければならない。そのためには、自分がどこから来たかを知らなければならない」という、古くからフィリピンに残るオセアニアのことわざを掲げている。
同様の言葉は、先年没したSF作家の小松左京も残している。『未来の思想—文明の進化と人類』(中公新書)の第1頁には「汝らは何者か? いずこより来たりしか? いずこへ行くか?」とあった。
南太平洋のタヒチに長く暮らした画家ポール・ゴーギャンも、作品のひとつに「我々は何処から来たか 我々は何者か 我々は何処へ行くのか」と、鑑賞者に問いかけるような画題をつけている。
「望郷阿呆列車」は、大きく脱線しかけているみたいだ。我々は何処から来たのだ。『人類の足跡』によれば、人類の出アフリカは10万年を少し遡るころで、ホモサピエンスと呼ばれる我々の祖先(新人)は、ごく大雑把にいえば、中東で東と西へ移動が二分した。 アジア大陸を南岸沿いに東進した新人たちはおよそ7万年前、現在のマレー半島からインドネシアにかけた、当時は陸続きのスンダランド地方に達する。
ここから一部が太平洋の島々へと渡海。いっぽうアジア大陸を北上した一派は現在の中国、モンゴルあたりに大挙出現する。4万年ほど前にはこの内の一部が日本列島に到達したらしい。
つまり、我々の直接的祖先はスンダランド北上派だった。沖縄諸島には最も早く上陸したろうし、この九州の地にも早かったにちがいない。
2両だけの九州横断特急は阿蘇外輪山の麓を走り、女性のパーサーというのか車掌がしきりに観光案内している。それを聴きながら斜向かいの若い男女が、バナナの房を取り出して食べているのがなぜか可笑しかった。 昔は汽車旅といえば網袋入りのミカンが通り相場だったが、最近はあまり見かけない。バナナに昇格したのかしら。
わたしの瞑想は醒めてしまった。