ニッケイ新聞 2012年2月16日付け
サンパウロ人文科学研究所(本山省三理事長)が定期的に開いている勉強会で31日、05年からJICA青年、シニアボランティアで計3年半、ブラジルに滞在した中村茂生さん(42、高知)が『水野龍の移民思想』をテーマに現在住む高知県で行っている研究の経過報告を行った。
中村氏は、水野家が生まれた時代背景や土地柄と、思想との関連性を説明。武士階級に生まれたことから、明治時代を迎え、秩禄処分で既得権益を失っていく姿を見て「武士救済策の一つとして殖民事業を思い立った」と論を進める。
土佐を中心とした自由民権運動は「民主主義の実現だけでなく、江戸の秩序崩壊後における権力闘争の側面があった」と分析。
「一時は関わった水野だが、標榜していた勤皇理想とは離れていったため、天皇親政派である立憲帝政党で政治参加した」と説明した。
自由民権資料館に勤めたこともある中村氏は「民権運動の研究者の間では、水野は活動半ばで離脱したと考えられ、評価は低い」と話した。
民権運動に関わった人の中に殖民事業を興した人間が多いことから、「水野個人の熱意と交渉で実現したと言われるブラジル移民だが、米国排日法のため受入れ先を探した末の判断で、水野が先駆けずとも、他の誰かが始めたのでは」と推測。
「としを経し磯の醜草根を絶えな 移し植なむ大和撫子」—との水野の句を紹介したうえで「様々な政治運動に参加した水野は、国内で実現できなかった新しい理想の社会を海外に求めていたのではないか」と結んだ。
参加者の中野順夫さん(北海道)は、皇国殖民会社は創始期の1903年にはフィリピンに移民を送っていたと述べ「水野の理想とは裏腹に、移民たちは出稼ぎの感覚で海を渡った。また、人口増加と食物不足が移民事業の理由というのは後付けの理論ではないか」と持論を語っていた。