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東日本大震災=「素晴らしい教育と文化」=宮城県女川町で被災した=イウトンさんが振り返る

ニッケイ新聞 2012年4月11日付け

 「皆がどうすればいいのか理解していたように見えた。素晴らしい教育と文化を感じた」—。昨年3月11日。宮城県女川町で被災した与儀・花城トシアキ・イウトンさん(48、三世)は、避難所となった体育館で9日間を過ごし、冒頭のような印象を持ったという。勤めていた水産会社では同僚の一人が亡くなった。ブラジル政府の支援を受け26日に帰国し、現在はサンパウロ市文化局に勤めるイウトンさんに体験を聞いた。

 「人生を変えたい」と渡日を決意。もともと日本に興味があったことも手伝い、08年11月に従姉妹一家が住んでいた女川町に住み始めた。
 勤務していた「ワイケイ水産」は3工場が被災し、稼動不可能に。復興庁、宮城県、女川町などのホームページによると同町の死者・行方不明者数は人口の1割弱にあたる900人以上に上り、住宅・建物被害としては世帯数の8割以上が全壊、あるいは半壊した。
 震災発生直後、市役所からの避難警報が聞こえた。「6メートルの津波だと聞いたが、実際には16〜18メートルほどだったようです」(イウトンさん)。従業員は屋上に避難しほぼ全員が助かったが、一人の女性だけ命を落としたという。
 住んでいたアパートはほぼ全壊した。「しばらくは、何が起こったのかわからなかった」
 翌日から町内の体育館に避難。何とかして家族に無事を伝えたかったイウトンさんは、避難所に取材に来ていた複数のマスコミ関係者に片言の日本語で「ブラジル領事館に連絡してほしい」と頼んだ。
 最も迅速に対応したのは読売新聞の記者だった。娘のメールアドレスを伝えたのが16日。「領事館に連絡してくれ、そこからブラジルの家族に私の居所と無事が伝わった」。携帯電話で家族と連絡が取れたのは翌17日だった。
 領事館は19日、イウトンさんらをバスで迎えに来た。その他、同地に住んでいたペルー人や石巻市に住んでいた日系ブラジル人もバスに乗った。手続きを経て日本を出発したのが25日。渡航費や出発までのホテルの宿泊費などはすべて政府が負担した。
 イウトンさんは避難所での生活を振り返る。
 「避難所だった体育館はとても静かだった。皆一緒だったことでなぜか自分も落ち着いた。誰もパニックを起こさず、秩序を保っていたことが信じられない」
 毎日午前に水を運ぶトラックが到着し、朝10時に一杯の味噌汁とおにぎりが配られた。
 「余っても奪い合うこともなく、子供やお年寄りに分けていた。政府の対応に怒る人もいるが、被災者が必要なものを供給して、やるべきことをやっていたと思う。ブラジル政府とは全然違う。皆状況は同じだった。ひとり違う態度を取ったところでどうしようもないということが、あの場にいた全員が分かっていた。素晴らしい教育と文化だと思った」と語る。
 「被災地はまだ瓦礫の山だと聞いている。お世話になった同僚に別れを言う機会がなかったが、人々が普通の生活に少しずつ戻りつつあると聞いてほっとしている」とイウトンさんはようやく笑みをこぼした。