ニッケイ新聞 2012年5月24日付け
前節に記した点意外に、準二世とは関係のない類似点もある。
第2章の「宮坂国人翁の死を悼む」の項に、《宮坂さんが、何回誘われても帰化せず、日本人として一生を終えたその気位に同感した。僕自身も、そうするつもりで生きている》と、大浦君は書いている。
京野四郎が在伯山口県人会の会長に就任した時、彼の意見に従って評議員の改選を行い、僕を評議員会々長に推薦した。
当時、京野は在伯帰化人協会の会長をしていて、何回も「あんたも、帰化しないか」と奨めてくれたが、僕はしなかった。僕も大浦君と同じく、飽くまでも日本人の1人としてこの国の土になる覚悟でいるのである。
第3章の「遠来の人(3)廃駅(Estacao Perdida)」の項に、着伯3日後に入植したというサンタエウドーシァ耕地(アルフレッド・エリス駅)を55年振りに訪ねた時のことが書いてある。
この時、大浦君は「鳥井(稔夫)さんを訪ねてきませんか」と横田さんと古田土さんを誘って、大浦君の車で3人で行った。
この時の模様は、8頁(33〜41頁)に亙って詳細に書いてあるが、横田さんと古田土さんの会話が「」(括弧)を付けずに文中に書き込んであり、不思議にそれがお2人の詩人の素朴なお人柄を髣髴とさせる見事な文章となっている。(この時の写真が84頁にある)
「第2章 青年期」の「詩との出合い」に僕のこと(古野さんのことも加えて)が6頁(62〜67頁)に亙って書いてあるのには、恐縮した。僕の詩も、1篇引用してある。
《時たま出る(伯剌西爾時報に)則近の作品は、どこか生活的なにおいを持っていた——》と書いてある。
これまでの僕の全作品の中で、ブラジルで1番始めに活字になったのは、伯剌西爾時報に発表された「袋を貼る」という題の詩であった。17歳の頃の作品だ。夕飯の後、家族中で桃の袋を毎晩貼っていた頃の詩だ。所謂、生活の詩である。
日本では、小学1年生の頃から小学館の月刊少年雑誌に毎月、作文、画、童謡、詩、標語等を投稿して、小学館のマークが入っている鉛筆、消しゴム、毛筆、筆入れ、筆立て、文鎮、メダル、トロフィー等を数え切れないほど貰った。
賞品は学校宛に送って来るので、朝、授業の前に男女の全校生徒がずらりと校庭に並んでいる朝会で小山校長(スポーツマンで、中距離走者の台湾記録保持者だった)の手から賞品を受け取った。賞品の大半はブラジルに持って来たが、何回も何回もムダンサ(移転)をする中に皆何処かに行ってしまった。
大浦君は、《古野さんとは第3回訪日の時、33年振りに京都駅のコーヒー店で約2時間、懐かしい話を交わした》と第5章に書いている。
その外、横田恭平の項にも、南米銀行文書課(未だ南銀本店がセナドール・フェイジョ街にあった頃だろう)に勤めている古野さんを表敬訪問した時、横田さんが初対面の古野さんに、《「自分は百姓なので、誰にへつらう心配もない。それに比べ、宮仕えの先生は気の毒である」と述べて、古野さんは怒りを抑えながらも、顔面蒼白になった》とある。
外にも、古野さんが撮ったという写真(「独身最後の写真」と説明してある)が写真集の中(5頁)に1枚ある。
大浦君が社会性に目覚めたのは、コチア産業組合が農事試験場(モインニョ・ベーリョ)で地方の青年を集めて地方青年指導者養成講習会に参加してからだという。
大浦君は後年、《そのころ、生意気でね、その辺の青年がばかに見えてしょうがなかった。だからその時、「帰ってからつまらなかったって言ってもいいですか」って言ったんだな(笑)》と述懐しており、《でもピシャッとやられた。「ああ、俺は井の中の蛙だった」と知らされた》とも述懐している。(つづく)