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『子供移民 大浦文雄』を読む=モジ 則近正義=第6回

ニッケイ新聞 2012年5月30日付け

 大浦君は、92頁に《我が人生に悔いなし》と書いているし、最終頁にも《悔いのない生き方をしてきた》とあるが、僕は彼とは反対に悔いだらけの人生だった。それについて少し書く。
 ①ブラジル学校の勉強をつづけなかった。(僕の仲人の福川薩然さん〔さつねん〕は、会う度に、「正義君は、何うして勉強をつづけなかったのかね」と言ってくれた)
 ②画家にならなかった。グルッポの校長は、「マサヨシ、お前は一生画のことだけを考えろ」と言ってくれたし、大勢の日系画家達から「画を描け、何故、描かんのか」と奨められた。
 ③一度も訪日しなかった。(ハワイ生まれの家内が少女時代を過ごした山口県大島郡を見たかった)
 ④台湾に行かなかった。(小学1年から5年までいた)
 ⑤一生涯、メモを取りつづけた。〈日本語に関する疑問〉を整理して、1冊に纏めることが出来なかった。(何冊にも纏める程ある)
 ⑥オウロ・プレットとその周辺の町に沢山あるアレジャジンニョの博物館、彫刻、聖人達の像、彼が建てた教会等を見に行かなかった。
 蹇跛(あしなえ)のアレジャジンニョは歩けなかった(癩病だったという説と、梅毒だったという説と2通りある)ので、弟子たちが毎日サッコ・エストッパに乗せて運んだという。
 外にも沢山あるが、この位にして置く。
 只1つ、子供や孫の1人々々を、〈僕の子供です〉〈僕の孫です〉と誰憚らず大きな声で言えることが、僕のささやかな誇りである。
 本誌あとがきには、《毎月1回、大浦君の家に行って1日中話を聞き、6カ月で6章を書き上げる筈だったが、脱稿は8カ月になった》とある。
 これだけ込み入った内容を8カ月で書き上げるのは容易な業ではなかったに違いない。
 既に冒頭で前述した通り、本誌は何の頁を開いて見ても殊の外複雑な内容ばかりだが、随所に挟んである大浦君の詩32篇(大浦君は個人詩集として纏めることを嫌った)と短歌40首(ペンネーム、大庭哲夫)が詩に潤いを与えているし、その時その時の大浦君の心(魂)の動きが実に忠実に描写してあるので、読む者を少しも飽かせない。
 そういう優れた才能(筆力)を身に備えている篇著者と交遊があったということは、大浦君の〈さいわい〉(幸運)であった。羨ましいと思う。
 《コロニア103年の歴史の中で、ともすれば忘れがちな子供移民が果たしてきた重要な役割の一端を知ることが出来たような気がする。(中略)この本を編ませていただいたことに対して「有難い」という気持がしきりである》と、あとがきは締め括っている。
 本誌を読む者は皆、同じ気持ちになるだろう。僕も同じ気持でこの拙い感想を書いた。いや、書かせて貰った。有難かった!
 本誌は、87歳までの大浦文雄の歴史であり、同時に、2011年までの日系コロニアの歴史でもある。
 本誌の最後に掲載されている、最近上梓されたという『日本移民百周年史』に収められたコロニア文芸についての細川周平(国際日本文化センター教授)の大浦文雄論の中に紹介してある大浦君の詩をここに引用して、この拙い1文のしめくくりとする。
《1句とっても 血のにじむような 詩が書きたい(獣のごとくおもう日がある)
 幾度読んでも 唯匂うような 詩が書きたい(少年の如くおもう日がある)
 生きる事へのねがいさながらに——》(この詩は136頁にもある)
 最後に、本誌を受け取って直ぐ封筒を破り本の表紙を開いた時、扉に、《永年の友 則近正義大兄 恵存 2011年10月 大浦文雄》と、大浦君持ち前の些か乱暴な、大きな字で書いてあるのを見た時、迂闊にも、眼が潤んだということを書き加えて置こう。(終わり)