ニッケイ新聞 2012年7月7日付け
漢詩や和歌に独特の節回しをつけて吟じる詩吟。現在日本に3千以上流派があるといわれるが、中でもブラジルに支部がある國誠流はアメリカ、カナダやハワイなど日本人移住国に70支部と、海外支部数が日本の支部数20をはるかに勝る国際的な流派だ。力強い覇気ある吟じ方で知られる同流派は、第2次世界大戦時、アメリカ・カリフォルニア州のマンザナー日系人強制収容所で生まれたという変わった誕生秘話がある。先月公演のため来伯した初代荒國誠氏の又甥にあたる2代目荒宗家は「詩吟に道具は要らない。国誠流の覇気ある空気の使い方も、鬱積した気持を表に投げ出すのに良かったのでは」と話した。
初代宗家は福島県出身で、本名を荒貞夫といった。荒宗家によれば、「明治生まれで口数は少なく、弟子にとっては雲の上の存在だった」。収容所でのことは余り語らなかったが、幼心にも、自由の国アメリカが国籍を理由に人権侵害したことへの憤慨を感じ取っていた。
貞夫氏は幼い頃から槍や詩吟、琵琶を自宅で嗜み、17、8歳の頃オペラ歌手を目指して米国に留学。声楽を学びながら、国風流の雨宮国風氏の元で詩吟を習った。
同収容所に入所したのは1942年頃。モハーヴェ砂漠の北、西半球で一番低い盆地デスヴァレーにあり、世界で最も暑い場所の一つに数えられる〃死の谷〃だ。荒宗家は「冬は極寒、夏は灼熱、周りは砂漠や山に囲まれて逃げようにも逃げられない所だった」と説明する。
しかし物や食料にはそれなりに恵まれ、スポーツや文化活動で余暇を楽しむことが許されていた。数ブロックごとに設けられた食堂で、貞夫氏の呼びかけから詩吟の会が生まれた。
43年に撮影された同会の写真には、およそ300人の会員が写っている。当時は吟名を荒國総と名乗り、会の名は師事した国風氏になぞらえ国風会とした。これが現在の国誠流の前身となった。
1〜2年ほど滞在後、日本に強制送還されたが、収容所で生まれた吟士たちは活動を継続。30数年前に米加詩吟連盟を結成、23年前にブラジルも加わり、今では日系人を始めアメリカ、韓国、中国人など約500人の会員が所属する。
「始まりはただの趣味ではなかった。だから他の流派にはない強い横のつながりがある」。
先代が重んじた「和」を流派の核に据え、渡米の際は半年間滞在して各地を巡回、5年ごとに各地で催される記念大会や同収容所の慰霊碑にも足を運び交流を続けている。