ニッケイ新聞 2012年7月21日付け
「グルッポ・サンセイ」はYOSAKOIチームの母体である、慈善文化団体の名称だ。YOSAKOI、太鼓はあとから加わった活動で、始まりは城間美智子さんが自宅で始めた小さなカラオケ教室だった。
13歳で日本語学校に入学して以来「日本の歌が大好きになった」という城間さんは、1984年頃に自宅で5人の友人にカラオケを教え始めた。生徒数は爆発的に増え、1年後には沖縄県人会ロンドリーナ支部で120人に教えるまでになった。
熱心な指導の甲斐あって、生徒らはカラオケ大会で好成績を得、日本行きの切符を手にする生徒も現れた。一方で生徒間の競争は激化。「このままじゃ駄目になるかも」との危惧を抱き、友人の坂本エドアルド・ANAブラジル支社長に相談を持ちかけた所「グループを作って、共通の目的、使命を持たせたらいい」と助言があった。
この助言を元に、早速1988年、約200人の生徒の中から歌の上手い人やリーダー精神のある人20人を集めてグルッポ・サンセイを結成した。坂本さんが共存やリーダー育成についてメンバーに講演を行ない、日本人移民80周年記念事業として、日本文化の普及を目的に音楽ショー実施という共通の使命が掲げられた。
どんなイベントを企画するにも一方的な押し付けはせず、集会を開いて民主的に決める。イベントを進める過程で問題が起これば、自身は相談役に徹し「自分たちで解決法を考えさせ、ルールを作らせた」と言う。「派閥を作らない」「謙虚さを持つ」「時間を守る」「率先する」「人の悪口をいわない」など、基本的な行動指針を定めたルールが生まれた。リーダーがこれらを身に着けることで、自然な形で次の世代が受け継ぎ、今に至っている。
その後は修好百周年行事として、日本人移民の歴史を描いた「ミュージカル・デ・サガ」の公演を聖・パラナ州で行なっていたが、2002年、会館建設費を捻出するために始めたロンドリーナ祭りの余興にと、同グループが分かれYOSAKOI、太鼓グループが結成された。
初期の20人の一人だった古川静夫クラウジオ副会長(二世、46)は、「私たちが上にたってあれこれ指示しては駄目で、リーダーを作って任せることが一番大事」と確信を込めて語る。古川副会長の目には、多くの団体幹部は青年の活動に必要以上に介入し、主体性を阻害していると映る。
放任との違いは、メンバーが「やりたい」と言い出したことには金銭・物質的なサポートや、事務手続きが必要な部分での支援は惜しまないことだろう。また、「勉強をおろそかにしたらグルッポ・サンセイは辞めてもらう」ことをきつく言い渡してあるため、家族も安心して協力の手を差し伸べる。家族を巻き込み安心して活動できる基盤を与えることは、メンバーの意欲にも大きく影響しているはずだ。
「やるべきことをやって、何でも最善を尽くすのが日本的精神でしょう」と城間会長は笑顔を見せる。だから全力で活動に臨みながらも、大学進学率は高い。古川副会長もそれを証明するように、「初めの20人が社会的に重要な役職についていることは私の誇り」と語った。
活動は変遷しても、人間塾としての本質は変わらない。札幌大会出場という大きな目的を達成したメンバーたちは今、次の目標を探し始めた。新たな目標への挑戦を糧にし、成長していくことが彼らの願いだ。(つづく、児島阿佐美記者)
写真=城間美智子会長