【らぷらた報知7月22日】ワールドカップが終わり、まだ喪失感が抜けない。日本が一勝もせずグループリーグを敗退したショックは、もう過去となり忘却の彼方に過ぎ去った。
グループリーグを勝ち進み、毎回劇的な試合を行い決勝まで進んだアルゼンチンを追いながら過ごした濃厚な1カ月も終わってしまった。
決勝トーナメントに進んでから、一試合ごとにディフェンス力をつけ、組織化した素晴らしいプレイを見せてくれたアルゼンチン。グループリーグのときのハラハラドキドキとは対照的に、決勝トーナメントに進んでからのアルゼンチンを応援する私の心の動きは、不安よりも勝つことへの熱望へと変わっていった。
今回アルゼンチン戦の多くが週末や祝日に重なり、友人達と集まって観戦すること自体がカバラ(願掛け)となっていた人々も多かったことだろう。
このワールドカップ期間中に、どれだけアルゼンチン性(Argentinidad)を学んだだろうか。私にとってはサッカーのグラウンドの外で繰り広げられるワールドカップを見るのも醍醐味の一つだった。
日本ではあり得ない光景
アルゼンチン戦が平日に当たったとき、夫は普段から出勤の際に持って行くリュックサックの中にアルゼンチンのユニフォームを入れて家を出た。
私が出勤すると、会社の食堂には巨大スクリーンが設置され、社員にブブゼラが配布されていた。など、日本では考えられない光景のオンパレード(連続)。
インターネット上は選手達に喝采を送る国民の声で溢れ、国全体が愛国心で満ちていた。国の文句を言っては不機嫌を撒き散らすカセロラッソの常連が、「愛するアルゼンチンよ!」と愛国主義者に翻る様子を観て、不思議とこの矛盾に納得してしまった。これが、アルゼンチン。
クリーデンスの『バッド・ムーン・ライジング』の替え歌で、今回アルゼンチンの応援歌となった『Brasil decime que se siente』は永遠のライバル、ブラジルを皮肉ったものだった。ブラジルが準決勝でドイツに1対7で負けた後はさすがのアルゼンチン人も慈悲が湧いて歌わないだろうと思っていた私の予想を簡単に裏切り、アルゼンチン人が最後まで歌い続けたのにも驚かされた。
予想裏切り、誤算の連続
ブラジルがドイツに完敗したので、多くのブラジル人は決勝でアルゼンチンを応援してくれるものだろうと思ったのも誤算だった。アルゼンチンとブラジルは絶対的なライバル同士…これは、状況によって変化するものではない。この対立は不変で無条件なのだ。
アルゼンチンは決勝でドイツに負け2位に終わったが、国民は選手らの健闘を誇りに拍手を送って止まなかった。
決勝戦後、帰宅途中のサンタフェ通りに人々が集まり、夜の空に旗がなびくのを見て、私の悲しい気持ちも慰められたことを覚えている。
ワールドカップ後には、あまり穏やかでないニュースも多かった。選手らを祝福しようと町へ出た人々を結局は妨げる結果になったオベリスコの暴動がそれである。また、ドイツ代表が帰国後の優勝祝賀行事で「ガウチョはこう歩く/ドイツ人はこんな風に歩くんだぜ」と、アルゼンチンを差別的なユーモアで皮肉ったことも問題になった。どこまでもサッカーには対立がつき物なのだと、優勝してもまだ対立へと戻ろうとする実態に醜さを感じると同時に、身体的主題を扱うユーモアには納得がいかなかった。
先日「パージナ12」紙で読んだメンポ・ヒアルディネリによる記事が思い起こされる。
「アルゼンチン人がナンバーワンなのではない。そうである理由もない。働き者の良き人民がいて、尊い感性と偉大な信念を抱く私達の社会には、非道で、激しく憤った腐敗者や悪者もいる。…私達がナンバーワンではない。また同様に、ブラジル人も、ドイツ人も、どこの国民もナンバーワンではないのだ。嘘と計画的な欺瞞によって人々の脳を編制する《世論》と呼ばれるものが、混乱を呼んでしまっているのである。…以下の三つの言葉が繰り返されるだろう―寛大さ、取り組み、努力…試合を進むごとにグラウンドに顕著に反映された価値ある姿だ」 (郷田)