パルマ共同農場は最初こそ協働作業で開拓したが、徐々に独立して財産を私有に戻し巣立っていった。若者が減ると農場経営が成り立たなくなり、65年の総会でリオにあるバチスタ教会連合会に土地を寄付し、その代わりに、残った老人に毎月1最賃を生涯払って面倒を看てもらうことに決めた。
今も老人数人が残る。世話人、管理人を入れても10人のみ、まるで養老院だ。「兵どもが夢の跡」というより「もぬけの殻」——という言葉が相応しい。
日系社会への影響はさることながら、同農場最大のブラジル社会への貢献は、多くの伝道師を養成して全伯へ送り出すバチスタ布教拠点となったことだ。農場から上がる利益の大半は伝道師養成学校(35〜38年)へ、さらに40年から牧師を目指す人向けの研修会を23年間続け、その教師の手当てや生徒の寄宿代は全額パルマ教会が負担したという。
《ヴァルパ植民地に往年の面影はない。しかし一世世代の移民が欲した信仰の自由と、安住の地は確かにしっかりと手にしたといっても過言ではあるまい。なぜなら、この広大なブラジルの地に少数のラトビア移民が蒔いた種は、今や全国に広がり、生きつづけているのだから》(阿部記事)。
ブラジルバチスタ教会史をひもとくと、ブラジルには米国系人が多いことが分かる。南北戦争で苦しんだ米国信徒ら5万人が1867年に集団移住して基礎を築いたからだ。ただし、ポ語ウィキ「Varpa」には「20年代後半から30年代の時点でヴァルパの教会は全伯最大規模を誇った」とあり、大きな影響力を発揮したことは間違いない。
Varpaという名はラトビア語で「穂」を意味し、「麦の穂」などの文節でよく使われる。聖書には、「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」という有名なキリストの言葉がある。植民地が穂とすれば、植民者一人ひとりが種となって全伯に広まり、穂自体は姿を消す。奇しくも、それを地で行く植民地となったようだ。
パルマ同様、植民地全体で子孫が教育機会を求めて都会に出て、多くは帰ってこなかった。外部に閉鎖していたのでどんどん人数が減り、今は同地に住む子孫は800人程度。60〜70年代に軍政の政策でブラジル人が多数入り込み、バールや商店を開業して住民の混住が進んだ。
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ルシアさんも学齢期の8年をサンパウロ市で過ごしたが、「やっぱりヴァルパが好き」だと思い直し戻ってきた。でも「ここで仕事を探すのは難しい」と嘆く。「我々子孫は移民史が失われることに危機感を持っている。だからパルマには建物が保存されている」。
彼女のようなルーツ意識のある人でも、「私はラトビア語の読み書きまででき、今でも家の中ではそれを使います。ですが、子供は読み書きはダメ」という。そんな中、ラトビア文化や移民史を残さなくてはとの想いで第1回移民のヤニス・エジベルギが同史料館を80年に設立し、93年にツッパン市へ寄贈した。
今年11月15〜18日にヴァルパ植民地は記念すべき90周年入植祭を「合唱祭などでお祝いをする」とルシアさん。「もしかしてラトビアからも来賓が?」と尋ねると、「それはありません。でも楽しくやりますよ」と微笑んだ。
阿部さんは帰りの車中、「二世の時代になると、祈りと協働に明け暮れる生活では満足できず、都会に出て就職してしまう。親が年老いると町に呼んで一緒に暮らすので、植民地の土地を売る。そうやってどんどん寂しくなる」と語り、遠くを見つめた。(終わり、深沢正雪記者)
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