ニッケイ新聞 2012年8月24日付け
普通の県人会式典なら400人がいいところだが、小禄田原字人会95周年式典には600人が集まった。県人会長の半分以上は一世だが、ここでは名実ともに二〜三世が中心で、建築資材業界、化粧品業界の大手企業経営者が多い。百周年を目指して今回から当地側が資金を負担して、故郷より次世代交流リーダー4人を招待する制度を始めたのは、そんな資金的裏づけがあるからだ▼県人会は大災害に限って母県を支援し、通常は母県から毎月支援してもらうイメージが強い。でも沖縄の場合は常に郷土と協力し合う雰囲気が濃厚だ。今回25人の訪伯団が来たが、昨年10月のウチナーンチュ大会では当地字人会から143人が郷土を訪問していた▼同字出身の上原幸啓さん(84、元百周年協会理事長)から「移民しなかったら、僕はきっと戦争で死んでいましたよ。小学校の同級生80人のうち、戦後生き残ったのは12人だけ。残りはみな戦死しましたから」と聞き、驚いた。前に軍港、後に海軍司令部、横に空港という立地の小禄は、沖縄戦で「1平米に爆弾二つぐらい落ちた」(上原談)という猛烈な爆撃を受けた。だから戦後に大量移住した訳だ▼幸啓さんの父と妹は防空壕の中に隠れていたが爆撃で死んだ。兄弟が米国移民していた祖母が、「戦争になったら沖縄は最後だ」とくり返し言ってブラジル行きと薦めたので、幸啓さんの父は子供のみ渡伯させた。悲しいことに、その情報と判断は正しかった▼そうして生き延びた子供達が当地で成長し、先人の苦労と決断に感謝し、故郷と協力し合いながら生きている。平和な時こそ国境を越えて絆を確かめ合うことが大切なのだ。(深)