ニッケイ新聞 2012年10月3日付け
定年後、 昔取った杵柄を振るう場所を与えられなければ、仕事だけの人生を送ってきた人は辛い。幸い文章を書く仕事はどこでも居場所を見つけられそうだが、意外にそうでもない。コロニア記者の先輩方も一線を離れてしまうと、握力が鈍るのか筆を握ろうとしないのは残念だ▼本紙元社会部長で先月25日に亡くなった神田大民さんは、その点変わっていた。例えば、メールで原稿依頼をする。すぐさま返信が来る。断りかと思いきや、すでに原稿が出来ているのである▼社会への参加意識も高かった。上下斜めから見て批判することが多かったからか、元記者はコロニアと距離を置くようなところがある。神田さんは史料館「あしあと」プロジェクトや人文研「日系社会年表」編纂に積極的に関わった。まさに長年のノウハウを生かした適材適所だった▼退職時にはノートパソコンを購入、新聞の配達も断りPDF版での購読に切り替えていた。初七日法要で挨拶した妻恭子さんの話では、NHK俳句の投稿にも熱心だったようだ。茫然自失とは全く違ったリタイア人生を送られていた。まだまだやりたいこともあったことだろう▼約6年間職場を共にしたが、話した記憶はあまりない。訃報に接し、退職後にやりとりしたメール履歴を眺めていると短いながらも叱咤激励の言葉を折々に贈ってくれていた。パウリスタと日伯毎日の合併時、社名「ニッケイ」案を出したのは神田さん。つくづく真っ直ぐで勘所を押さえた人だった。恭子さんによれば、「新聞づくりに一生を捧げたことを誇りに思っていた」。器用ではないが、誠実だった人生に献杯。(剛)