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第1回=参加者各人の移民ドラマ=柴田空軍少将がお出迎え

ニッケイ新聞 2012年11月6日付け

左から柴田予備空軍少将、右が松尾さん

 第38回を数える県連故郷巡り一行は9月29日午前9時半、サンパウロ市のコンゴーニャス空港に集合してブラジリアへ向かった。たまたま隣に座った、いつもおしゃれな小原あやさん(91、岩手)=ボツカツ在住=に、さっそく旅の一番の楽しみは何かと問うと、「初めて行くマラニョンね。でもね、砂漠は見たいけど砂に触るのはイヤ」と初々しく即答してきた。

小原あやさん

良家の子女の雰囲気を漂わし、上品でお淑やか、か弱そうにすら見える小原さんだが、実は戦前から日赤で看護婦をし、戦場から送られてくる腸チフス、結核などの伝染病患者を看ていた。実は性根が座っていて、自他ともに認める「気の大きさ」がある。
 「戦地に赴いた婚約者を10年以上待ったが帰ってこなかった」との言葉から、深い絶望が漂う。小原さんは思い切って構成家族という形を取って、56年に一人で渡伯した。父は小さい頃に死んだことから、女手一つで育ててくれた母には「移住の1カ月前に知らせた。でも許してくれた」とポツリ。
 小原さんの話を聞くにつれ、期せずしてテレビの大河ドラマでも見ているような気分になる。移民人生のドラマを謹んで鑑賞する——これが故郷巡り同行取材の醍醐味だと痛感する。

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藤川修子さん

逆側に座った藤川修子さん(よしこ、83、岡山)と雑談していたら、今度は「終戦直後47年から3年間、モジ市コクエイラ区のカザロン・デ・シャー(お茶屋敷)で働いていた」というので驚いた。連邦文化遺産にも指定された貴重な日系史跡であり、「木造のガウディー」を思わせる不思議な建築だ。
 「揮旗さんが日本から宮大工を呼んで作らせたの。『釘を一本も使ってない』って、支配人の浪江さんがいつも自慢していたわ。あの頃、2、30人働いていたかしら。実は降旗さん本人を見たことないけど、息子さんはサンパウロでオーケストラに入っているとかで、夕方にバイオリンを練習しによくカザロンに来ていたわ」とうっとりした表情で思い出す。
 茶摘み娘たちがせっせとお茶を揉んだり、袋につめたりする作業の手を休めた瞬間、夕陽のお茶畑を望むお茶屋敷の二階からは、ドーノの息子がバイオリンでクラシック音楽を練習する音が響く——という光景は、当時の文化村コクエイラを彷彿とさせるものだ。
 揮旗深志(ふりはた・ふかし、1891—1971年、長野)は北海道大学農科卒の当時としては珍しい農学士で、1926(大正16)年から月刊誌『農業のブラジル』(農事通信社)を堂々たる活字印刷で発行し、農業界を牽引した。コロニア雑誌としては最初の本格的な出版物であり、インテリ揮旗の息子らしい逸話だ。あのカザロンが〃生きていた〃頃を知る貴重な証言だと、思わず書き留めた。
 一行は124人もおり、飛行機はほぼ貸しきり状態だ。機内を見渡しながら、参加者一人一人が色々な物語を抱えているのだと襟を正した。

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 ブラジリア国際空港に到着すると、ロビーには柴田アゴスチーニョ空軍予備少将が出迎えに来ていた。将校自らで迎えるとは、どんなお偉いさんが到着したのかとキョロキョロしていたら、一行のレジストロ在住の松尾仁(ひとし)さんの出迎えだった。
 「わざわざ来てくれたんだ!」と喜ぶ松雄さんと抱き合っている。よく見れば柴田少将の頭にはスドエステ野球の帽子が。「50年前に聖南西野球大会で優勝した時の仲間なんだよ」と松尾さんは破顔一笑した。(つづく、深沢正雪記者)