ニッケイ新聞 2012年11月24日付け
最後に、山田清さんが手配した同州が誇る芸能「ブンバ・メウ・ボイ」を踊るチーム「ボイ・デ・ルア」の舞踏が披露された。若者40人がバンドと踊り子に分かれ、植民地時代に富を象徴した「牛」を中心に、インディオの魔術師役、カボクロ役、黒人奴隷役などが民俗的な物語に沿って踊るものだ。ブラジルを代表するサンバは黒人文化の影響が強いが、ブンバ・メウ・ボイはインディオ色が濃厚な感じだ。
チーム代表のロブソン・コラルさん(55)は「ボクは山田から少林寺拳法を25年間も習っている。彼に頼まれれば、若いのを連れてくるぐらいなんでもない」という。
「マラニョンでは奴隷階級の踊りとして1894年頃に始まった。バイーアのカポエイラと一緒で、当時、白人から市中心部でやることを禁止されたり、警察から追い回されたり、差別された踊りだった」との歴史を語る。それが現在では、州を代表する踊りになっている。
この踊りが19世紀にアマゾン河中流でゴム産業が勃興した時に、マラニョン州などから国内移民によってパリンチンスに持ち込まれた。1920年ごろから地元の伝統舞踊として広まり、現在では国際的に有名な奇祭ボイ・デ・パリンチンスの起源になったという。
郷土芸能チームを見た一行の吉田武弘さん(67、佐賀)=ブラジリア在住=は、「なかなか見られない踊りを見せてもらった。日本人会がやってくれた最高のもてなし」と喜んだ。
一行の森本勝一さん(77、高知)は「きっと子供の頃から練習していたんだろう。若い人たちがこれだけ伝統芸能をやるのは立派なことだ」と関心していた。
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翌10月2日、一向はサンルイスから東南に260キロ、レンソイス・マラニャンセス国立公園の中にあるパレイリンニャスに向けてバスに乗った。海岸線から内陸に入ると突然、車窓には巨大なクレーンが林立する光景が広がった。カラジャス鉱山でとれた鉄鉱石の積み出し港として有名なイタキ港だ。この開発によって1880年代から長い黄昏期にあったサンルイスがようやく復興し始めた。
現在、日本政府が港拡張計画準備調査をし、世銀「日本社会開発基金」から約3千万ドルが支援される予定といわれ、日本とも縁が深い。「あれが見学できたら良かったのに」との声が車内のあちこちから聞こえた。
一行の小山徳さん(のぼる、73、長野)にとってもサンルイスは思い出の地だ。
南米産業開発青年隊8期として1962年に渡伯し、70年代以降、当時は最新技術だったマイクロウェーブ送信の中継施設建設を、軍事政権から受注した日本電気(NEC)に勤めていた小山さんは、まさにアナポリスからベレンまでの44局を担当していた。
1971、2年頃にサンルイスからパラー州カショエイラまで、電波を200キロも飛ばす施設の工事では現場主任をしていた。その時、右手の親指と人差し指を事故で切断してしまった。
「あの当時は、今みたいに電気が普及するとは思わなかった。この地域に電気が通るには、あと50年かかると思っていたから、44局全部に自家発電設備があった。カショエイラの発電用エンジンに水漏れがあって、直そうとしてスパナをいじっている時にプロペラに接触してしまい、アッという間に指が切れちゃって、ベレンまで200キロを自分で移動した。ちょうどナタルの時期でね、救急病院が込んでいたよ」。
バスの車窓から時折り見える巨大なアンテナ設備を見ながら、小山さんは40年前の記憶をたどった。(つづく、深沢正雪記者)
写真=小山さん/ボイチームの指導者ロブソンさん/手前の獅子舞のようなものがボイ。左がカボクロ。「ボイ・デ・ルア」の踊り