ニッケイ新聞 2012年12月8日付け
【既報関連】7日に続き、5日に逝去した建築家オスカー・ニーマイヤーの軌跡を辿ることとする。
ニューヨークの国連ビル建築に首都ブラジリアの建設と、建築家人生の絶頂にあったニーマイヤーは、60年代に苦境に立たされた。1964年、右翼軍事政権がブラジルの政権を握ると、ジュセリノ・クビチェックやジョアン・グラールといった旧勢力の元大統領も失脚したが、1945年に共産党に入党していたニーマイヤーも。左翼的な政治志向が嫌われ、設計活動を禁じられた。ニーマイヤーは思想の自由を守るため1967年にフランスに渡り、以後20年近く、同国を拠点に活動、欧州に多くの建築物を残した。
1985年の民政復帰後、ブラジルに戻ったニーマイヤーはすでに80歳に近かったが、ここからまたキャリアを代表する名作を次々と発表し、1988年に〃建築のノーベル賞〃と呼ばれるブリッカー賞を受賞した。また、1987年から89年にかけてサンパウロ市西部バラ・フンダに建設された南米記念博物館では、大きく開いた手のひらにラ米の形を描いて流れる血を表現した彫像で話題を集めた。
90歳に近くなった1996年にはリオのニテロイに現代美術館、2002年にはパラナ州クリチーバに、別名〃目の美術館〃とも呼ばれるオスカー・ニーマイヤー美術館を建築し、「世界最長老の現役建築家」としても注目された。98歳だった2006年11月に再婚した。
100歳を超えても精力的に建築活動を続けていたニーマイヤーだったが、ここ数年は体調を壊し、肺炎や泌尿器疾患などで入退院を繰り返し、1月2日からリオのサマリターノ病院に入院し、5日に呼吸器感染のために104歳で死去した。だが、ニーマイヤーは最後の入院中も、医師に次のプロジェクトの話をし、知人たちとサンバを歌う姿を見せるなど、元気なところをアピールしていたという。12年12月には同氏の手がけたサンパウロ州サントスのペレ博物館が完成する予定だったが、その完成を見ずに世を去った。
ニーマイヤーの死後、ジウマ大統領は「ブラジルは1人の天才を失った」と追悼の辞を述べ、ニーマイヤーを大統領府で国葬すると発表した。ニーマイヤーの遺体は6日午前、50数年前に建てた、長い建築家人生で最も重要な作品の一つに運ばれ、多くの人々から最後の別れを受けた後、再び故郷のリオに。リオ市庁舎での葬儀は7日夕刻まで行なわれ、リオ州知事やリオ市長も表敬。その遺体はリオ市ボタフォゴのサンジョアン・バチスタ墓地に埋葬された。