1日には首都ブラジリアでジウマ大統領との首脳会談など、過密な日程をこなしてきた安倍晋三首相は2日、今回の中南米訪問の最終日程となるサンパウロ市での行事に参加する。当地は安倍家三代にわたる縁の深い場所。祖父の岸信介が日本国首相として初のブラジル訪問を実現させた1959年7月のことを、元パ紙記者で、当時は商工会議所職員だった水野昌之さん(90、愛知)から、現場に居合わせた人ならではの意外な裏話を聞いた。
日毎紙同28日付けには「一時間ほど前から千数百の日系人が到着を待っており、姿を現した際には歓呼の声をあげた。笠戸丸移民の数人が出迎え握手を交わした」などとコンデ街の演説の様子が詳報されている。文協ビル建設前であり、日本人が集まる数少ない市内の集住地区だった。
水野さんは、岸首相からわずか3メートルの距離で演説を聞いていた。表情なども良く見て取れたようで、実は岸首相は「最初、少し嫌そうな顔をしていたので強く印象に残っている」と思い出す。
というのも「一国の首相を迎えるなら、本来はステージや段取りがあって良いはず。にも関わらず、随行していた日系の政治家から無理やりに頼まれて、その場にあった木箱を路上に置いて、『上に乗って下さい』と急に催促されたようで、気まずい顔をしていた」と話した。
日本人がたくさん集まっていて、何の言葉もなく終わるのはマズイと思ったか、その場に居合わせた日系政治家が無理やり頼み込んだようだ。
水野さんは〃木箱〃と表現したが、岸氏本人は『岸信介の回想』(文藝春秋、1981年)の中で「ミカン箱をならべて、その上に立って、それでそこは田村というブラジル共和国の代議士の出身地なんだ。田村君をそばにつれてきて、これは君の、いい選挙演説だよと言ったんだ」(402頁)と書かれている。
無理やり喋らされた側からすると〃ミカン箱〃と言いたくなる木箱だったようだ。断ることも出来ず苦笑いで登壇、といった感じだろうか。
本人としては、結果的に「田村幸重下議の応援演説になった」ような挨拶だったとしているが、水野さんは「あの場に居たのは京野四郎さんだったはず」と語った。
その時、ちょうどサンパウロ市議に立候補していた京野さんは、小柄で真っ直ぐな性格から〃豆タンク(豆戦車)〃とも呼ばれた。そんな彼だから、一国の首相をコンデ街に招き、〃ミカン箱〃の上まで乗せることに成功したのかもしれない。
演説内容はというと、「たしか選挙の年で日系議員を応援するようコロニアに向けてお願いがあった」と言い、『今日は平和が戻ったが、移民した皆さんは戦争前後で苦労したと聞いている。これからもブラジル社会のため尽力してください』と、移民に対して労い、激励の言葉が向けられたという。『日系人がお世話になっております』といった、移民を送り出した立場からの感謝もあったと、水野さんは当時を懐かしく振り返った。