大戦中、ブラジル遠征軍(FEB)はは連合国側について、イタリア戦線で独裁政権の枢軸国と戦って多くの血を流した。1945年5月7日、ナチス・ドイツの降伏でようやく勝利した。しかし自国に帰ってみたら、そこにも独裁政権が待っていた。その矛盾が、軍をしてヴァルガス退陣を決意させた。
《世界には民主政治の風潮がみなぎっていた。軍の首脳部にもバルガス不信の気配が出るのは当然であった。ゴイス・モンテイロ陸相は辞表を胸中にして、リオにいる軍の首脳会議を招集し、緊急会議を開いた。結論はただひとつ、バルガスの辞職ということで一致した》(斉藤、同、128頁)という流れだ。
そして《十月二十九日夜、いくたびか使者が会議の席から政庁カテテ宮に派遣されたが、妥協点は見いだせなかった。深夜にいたってバルガスは下野を決意した(中略)バルガスは家族を伴い、三十一日には軍用機に乗って生地サンボルジャの牧場に帰った》(斉藤、同、128頁)となった。
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祐子さんは「(松原は)大統領出馬の選挙運動の資金をヴァルガスに援助したと聞いている」とも語った。これは1950年末の大統領選挙に間違いない。
『移住研究』24号(1987年3月、国際協力事業団)に「バルガス大統領のアミーゴ」(黒田公男)という論文が掲載され、前述のアルキメデスのことが若干書かれている。
《松原にはアルキメーデス・アニアンエスという顧問弁護士がついていた。この弁護士とバルガスは懇意であったことから、共通の知人の弁護士(註=アルキメデス)を通して何時か接触を持つ運命であった。アルキメーデス弁護士は、バルガスが大統領だったころ(註=一期目)から松原のことを折りにふれて話していた。松原は郷里で不遇時代を送るバルガスに、アルキメーデス弁護士を通じて力強い支援を送り、サンボルジアのバルガス私邸にも出入りした》(16頁)とある。
15年間にもわたる長期政権の果てに軍から追い出され、はるばる南大河州の私邸に帰った失意のヴァルガスに、松原は惜しみなく援助をしたようだ。最も不遇な時代に敢えて手厚く接する懐の深さ――。
権力の座を追われた者にとって、たとえそれが枢軸国側移民であっても、これほどあり難い存在はあるだろうか。おそらく、これが〃未来の大統領〃と一介の移民が育んだ友情の原点であった。
一方、1937年に新国家体制という独裁政権樹立と共に国外に亡命していた反ヴァルガス派は、軍部が彼を追い出した前後に帰国して政界で存在感を強めていた。
結果として1950年の大統領選挙は激しく争われたが、選挙を戦う上で、自分が有利になるように導いてくれそうな天秤を動かす〃一粒の米〃がおそらく松原だった。(田中詩穂記者、深沢正雪記者補足、つづく)