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大統領と日本移民の友情=松原家に伝わる安太郎伝=(7)=「今度は君の頼み聞きたい」=日本人にもう一度機会を!

1951年10月5日付パ紙の記事

1951年10月5日付パ紙の記事

 終戦直後、ヴァルガスが軍部に追い落とされた流れを受け、反ヴァルガス派はここぞとばかりに勢力を結集して保守派のUDN(民主連合)を組織し、ヴァルガス派の革新勢力「PSD(社会民主党)とPTB(ブラジル労働党)」の二派が覇を競う時代となった。
 ヴァルガスは雌伏5年、1950年末の選挙では、結果的に《総票数約七百九十万票のうち、その半ばに当る三百八十五万票を獲得してバルガスが圧勝した》(斉藤、同、130頁)という勝利を飾った。
 この間、《サンパウロでは反バルガス派を代表してオ・エスタード紙が連日政府攻撃の論陣を張り、リオではカーロス・ラセルダが攻撃の先鋒をつとめた。このほか、国会の演説やマスコミを通じて、汚職、公費費消、職権乱用など、些細な事件でもすべての報道がバルガス攻撃に使われている。反バルガス派はあらゆる情報網を動員して醜聞のネタ探しに懸命であったし、その結果は誇大に報道された》(斉藤、同、131頁)。
 反ヴァルガス派が跋扈するブラジル政界の〃伏魔殿〃に、有力な支援者・松原が巻き込まれるのは必然だった。つい数年前まで〃敵性国民〃であった日本移民が、ヴァルガスを支援しているという情報は、反対派からすれば「スキャンダル性が高い」と思われても不思議はない。
 二人の関係には、敵対メディアから念入りに調査の手が入り、少しでも怪しい部分があれ大々的に攻撃材料に使われる素地があったようだ。
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 祐子さんによれば、1950年末に大統領再選を果たし、実際に政権に戻った後、ヴァルガスは松原に「君が私を助けてくれたように、今度は君の頼みを聞きたい」と申し出た。
 その頃既にかなりの資産を持っていた松原は、「自分にはもう何も必要ない。和歌山県人を受け入れるための移民枠がほしい。今日本は戦後で生活が苦しい。自分にあったような機会を同胞に与えたい」(祐子さん談)と伝えた。
 松原はマリリア駅に300域(アルケール)を購入し、8万7千本のコーヒーを植え、1936年までにさらに300域を買い増していた。パラナ州南部にも2千域の原始林を所有し、最盛期には3200ヘクタールもの面積を誇った。
 祐子さんは「日本移民を受け入れることでブラジルという国に貢献したい。自分の故郷の役にも立ちたい。自分の人生を築き上げることができたブラジルという国に感謝したい。そういう思いだったみたい」と言う。
 その要請はヴァルガスに受け入れられた。「それも異例の早さだったため、松原自身も驚いた」という。実はこの頃まで松原は、日系社会ではそれほど広く知られた人物ではなかった。
 『汎マリリア三十年史』には松原の人物評として《昔から有力な存在ではあったが、物騒なマリリア日会などは敬遠して専ら我が往く道を開いた人》(59年、89年、89頁)とあり、血気盛んな気風が強く、勢力争いがあった地元日本人社会とは距離を置いていた人物だったようだ。
 同三十年史にも松原に関するまとまった記述はなく、特筆すべき人物だが多くを語るにはどこか憚られる、そんな雰囲気が伺われる。松原に直接に取材した記事が邦字紙に出るのは、1951年10月からだ。(田中詩穂記者、深沢正雪記者補足、つづく)