ニッケイ新聞 2011年2月15日付け
永田洋子。あの凄惨で陰鬱な連合赤軍事件から、もう39年が過ぎている。今も永田洋子をきちんと覚えている人は少ないと思う。印旛沼で同士2人を殺害、榛名山のアジトでは仲間を12人も殺し山中に埋めた。それも—真冬の凍てつく中での犯行であり、被害者は凍死し、脱糞の凄まじいばかりの虐待があり、時の警察庁長官・後藤田正晴氏も「そんなー」と呻いたそうである▼1970年(昭45年)から72年の頃は、将に左翼革命が勃発しそうな危機が迫っていた。あの「よど号」乗っ取りが起こり、重信房子(服役中)がレバノンへ。森恒夫(獄舎で自殺)は「革命のためなら盗みでも許される」の「徴発の論理」を展開し郵便局などを襲撃し、軍資金の獲得に成功して連合赤軍の活動は活発になる。そして榛名山のリンチや「あさま山荘事件」と悪の連鎖に繋がって行く▼72年になると、日本赤軍(連合赤軍とは別組織)の岡本公三ら3人の日本人がテルアビブ空港でカラシニコフ自動小銃を乱射、24人を殺戮し、奥平剛士と安田安之も死亡するなど海外でも日本人が関与する革命の闘いが拡大する。後藤田長官も「革命の危機」を警察幹部に語り、公安の維持を強化したの話も伝わり、さながら暴力革命前夜の状況だった▲榛名山虐殺は、「あさま山荘事件」の指導者・坂口弘(死刑囚)の自白で明らかになったのだが、捜査した警察官も驚くような悲惨な現場だったし、逮捕された最高幹部の永田洋子は、死刑の判決を受けていたが、そんな暗い過去を背負いながら—東京拘置所で脳腫瘍のため死亡した。65歳。(遯)