松原は移住者募集や準備のため、1952年11月に一時帰国した。《松原氏夫妻は母国を訪問、畏れ多くも、天皇陛下に拝謁仰せ付けられ、朝野の要人、名士と会して、ブラジル移民計画を完遂した。翌年七月八日、ドラード移民二十二家族(百十二名)がサントス港に着き「新移民来る」の朗報は、邦人コロニアに、清新の気を漲らせたのである》(『在伯日本人先駆者伝』パ紙、203頁)
一介の移民が、祖国で国賓的待遇で受け入れられた背景には、日本政府ですら難しかった戦後移住再開を、個人プロジェクトとして成し遂げた松原への敬意があった。
でも、それゆえに『移民70年史』に《当初これが政府ベースの取決めによるものでなかったために、送出、受入れ両国において条件や準備が不完全で数多くの問題を引き起こしたのである》(113頁)とあるように、後々すべての責任が彼の背中に圧し掛かるという、〃錦衣帰国〃の栄光と背中合わせの危険性を孕んでいた。
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いわゆる「松原移民枠」で入ったと一般にいわれるのは、麻州リオ・フェーロとドウラードス(現南麻州)、バイーア州のウナの3植民地だ。うち後者二つは連邦植民地の一部に日本移民が固まって入ったという形であり、インフラ整備や受入れ準備は連邦政府の移民局が担当した。
でもリオ・フェーロは自ら拓殖会社を作って、州から植民地建設と分譲の委任を受け、個人事業として開拓に取り組む形をとったから、全責任は松原にあった。その点が他とは大きく異なる。
リオ・フェーロ拓殖会社は1952年8月7日に創立し、最初の入植者が翌53年7月に入った。つまり訪日前に早々と創立されている。それどころか、リオの移植民審議会が松原移民枠の4千家族を承認したと発表したのが52年8月20日頃だから、それよりも早い。
ヴァルガスから早々と内々の決定の通知を受け、年末には募集のための訪日をする計画すら、この時点でたてていた可能性がある。
ジアリオ・デ・クイアバー紙(DC紙)サイト01年4月1日付特集記事よれば、祐子さんの夫・義和(Paulo Iosihua、当時74歳)は、《ヴァルガス大統領と父の友情が土地譲渡の決定要素であったことは間違いないが、その計画で利益を挙げようとしたものではまったくない。お金の為だけなら、terra devoluta(未開発の公用地)を買うこともできたし、同じだけの投資をするなら、何も拓殖事業に手を出す必要はなかった》と語っている。
背広のポケットに大統領の親書を忍ばせた松原はブラジル空軍機(FAB)に乗って、日本人入植地を探して全伯の候補地を飛び回り、その途中でマット・グロッソ州(MG州)フェルナンド・ドレア・ダ・コスタ知事にも会いに来た。
当時、MG州にはシングー国立公園設立の動きが影響していた。2万7千平方キロという広大な面積をインディオ保護区にするものだ。義和が同紙に語ったところによれば、同知事は保護区の面積が大きすぎると考え、「なぜそんな広大な土地をインディオにやらなきゃいけないんだ」と異議を唱え、視察にきた安太郎に「開拓事業をやらないか」と持ち掛け、そこから同拓殖会社が始まったとの驚くべき逸話が書かれている。(田中詩穂記者、深沢正雪記者補足、つづく)
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