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〜OBからの一筆啓上〜戦時下の邦字記者=田中慎二(元パウリスタ新聞記者)

ニッケイ新聞 2011年6月1日付け

 最近のニッケイ紙に掲載された、勝ち負け抗争で野村忠三郎殺害時に蒸野太郎が腹に巻いていた日の丸が、脇山甚作の襲撃犯・日高徳一から移民史料館に寄贈された記事が話題になった。
 さらに同紙に連載された『アンドウ・ゼンパチ—清貧に生きた波乱万丈のインテリ』でも、連載二十回目の「激化する勝ち負け抗争」の記事で、野村が暗殺される前日、サン・ベルナルドの瑞穂村にアンドウを訪ねた様子が記述されている。
 その忠三郎が開戦当初、日本軍が破竹の進撃をつづけていた1942年、友人の馬渕知世(海興)に宛てた書簡がある。
 その文面からは、アジアでの戦況では「南方新建設事業のことばかり」と述べ、ヨーロッパを席捲しつつあるドイツとソ連との状況などが記されており、日本の勝利がほぼ間違いないとする内容で、「大戦の大勢はほぼ決まったといってよくはないか」と戦局を楽観しているさまが読みとれる。
 しかし翌43年の書簡では、長期戦を予想するようになり、「戦争も俄かに格好はつかぬらしい。従って我々も本腰に持久の策を立てねばならぬ」と子供の教育問題や生活上の不安を記している。
 ところで、この2通の書簡で興味をひかれたのは、邦字紙の閉鎖で職を失った記者出身の貧乏インテリが、当時どのような方法で生計を立てていたのか…ということで、次に引用する内容からその一端をうかがうことができる。
 「江見居士(注・江見清鷹=東大経済卒)仕事がなく、心配中のところ来九月からお茶摘があると喜んで数日前やって来た。それもクチスギが出来る程のことでないし、第一歴とした学士様のお茶摘は気の毒な次第。
 木村(注・木村義臣=東大中退)もお茶摘を女房にやらせることに決め、近くモロンビーに引移る筈、家は小生の紹介でロハのものがあるので家賃の不要なること江見と同じ」。 
 また43年の便りでは、前記二人の近況について次のように知らせている。
 「江見のモグサ造りも学士の仕事の範囲を出ず、早く平和の日が来て、お得意の仕事をさせ度いものだ。木村はお茶煎りをしているが、これも同前、但しどん底に落ちての体験なので、後の為にはなろう」
 そしてサンパウロ市のジャバクワラで肉用鴨飼育をはじめた野村は、「養鴨事業?モコノトコロ其日暮シノ域ヲ脱シ切レズ、尻切レトンボニナリハセヌカト専ラ心配中」などと書き送っており、失職した邦字記者の、戦時下での生活難が書面から伝わってくる。(敬称略)