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特別寄稿=私のモラエス=「サウダーデ」を巡る移民側からの随想=中田みちよ=(下)

ニッケイ新聞 2011年7月15日付け

 99年の講演会以来、ポルトガルは長い間、私の夢であった。2011年4月の末、とうとう、そのモラエスのポルトガルに行ってきた。いまも残されているという生家を訪ねるためである。
 藤原正彦の『父の旅・私の旅』や『地球の歩き方(ポルトガル篇)』にはリスボンにはラルゴ・ダ・アヌンシアダ広場近くにケーブル線があり、その横の階段を上るとあるが、私たちのガイドは別の道を選んだ。
 車でカンポ・デ・マルチレス・デ・パトリア公園を行きつもどりつ迷いながら連れて行ってくれたトラヴェッサ・デ・クルス・デ・トレルはいわば袋小路であった。ポルトガルには愛国的な街名が多い。十軒長屋とでもいえばいいのだろうか。しかも、そんな通りが連なって深閑とした一区画をなしている。
 あたりはそのままブラジルのヴィラのような一角にいる印象をあたえる。言葉が通じることもあって、私は縁戚の家にきているように感じた。
 公園の植物相も変わりがない。車一台がやっとの道巾に、間口の狭い家がびっしり並んで長屋の呈をしている。
 その中の4という番号の戸口のうえにこんなプラケートがかかっていた。戸口を仰ぎみながら、とうとうやってきた、と私は肩で息をした。
 「海軍士官にして作家たりしヴェンセスラウ・ジョゼ・デ・ソウザ・モラエス(1854〜1929)が生まれ育ちたるはこの家なり。長き歳月を愛する日本に過ごしたるかれは、祖国に思いを馳せつつかの地に死せり」
 日本語は縦書きに、半分はポルトガル語で横書きに。プラケートは白のアズレージョである。ポルトガルは装飾アズレージョの生産国だから不思議でもないが、白い貧相なものが、ライトグリーンの壁に貼られていた。1854年に生まれたモラエスが海軍学校に入るまでの14〜5歳までを過ごした家であろう。
 日本語によるモラエス記にはいずれも中流の家庭の出となっているが、今から150年ほど前という時間的経過を考慮に入れても、生家がそれほど裕福だったとは考えにくい。ごくごく下町の出である。
 第一、裕福な家庭の子弟は軍の学校には入らない。これはブラジルでも一般的にそうで、勉学を志しながらも経済的な裏づけがないものが入学するところなのだ。国立で学費がかからない。しかも、わずかばかりだが手当てがもらえる。モラエスもこれを狙ったのであろうと、私は思う。 
 『・・・軍人と答えたら、先生もクラスメートも大笑いした。私は青白い、弱弱しい少年だった・・・』という述懐がある。海軍兵学校に入学した頃父親が死に、母方の叔父の援助も受けている。
 このタイル板の横文字が国語の国で、縦書きの日本文字を書いたのは誰だろう。しかもタイルに釉で焼きつけてある。
 それよりも何よりも、この150年の間には家の所有者が何度も変わっているはずなのに、なぜ、このタイルははがされないのだろう。
 私なら、購入した家の戸口にこんなものが、しかも異国の文字で書かれたものが貼られていたら、改築のときに真っ先に取りはらうはず、とシャッターを切りながら思った。
 ホテルの中でも思考は続いた。こんな変哲もない小さな家が観光案内書(日本の)にも掲載されているということは、モラエスを尋ねてポルトガルを訪れる日本人が多いということになるだろう。
 2冊ほど手に入れたポルトガル語の観光案内には、モラエスの家など掲載されてもいない。すると、市役所の文化部署あたりから、日本人観光客をターゲットにした観光スポットとして何がしかの維持費が払われているのだろうか。
 精神的に粗雑なブラジル人とは異なり、ポルトガル本国人は文化的なことを愛でる素地があるのだろうか。それともたんに「円」の魅力なのか。
 1993年のポルトガル人日本到着450年を記念して、ブラジルでもモラエス作品が出版されるようになったという。
 文人や研究者をのぞけば、ポルトガルにすらモラエスを知る人は少ないだろう。百科辞典のように豊富な知識を仕入れているガイドだって首をふっていた。そんなものかもしれない。
 先だっても経済破綻を報じられて貧窮する様子が伝えられたが、ポルトガルは大航海時代には元気がよかった。テージョ川にはおびただしい帆船が停泊し、東洋航路に向けて出航していた。インドがポルトガル人の憧れだった時代である。
 ポルトガルの頑強で優秀な青年たちはみなインドを目指し、植民地だったブラジルには落ちこぼれや犯罪者がきたともいわれるくらいだから、モラエスが海軍に入ったのも頷ける。
 悠久に流れるテージョ川岸には、帆船をかたどった発見の碑がある。どれほど多くの青年たちの夢を海のかなたに運んだことだろう。
 うすら寒いにごったテージョの川面を眺めながら、島国日本も水平線がどれほど青年たちの夢をかきたてたか、はかり知れないと思う。その一例としてあげられるのがコチア青年単独移民としてブラジルにきた人たちである。
 モラエスは75歳の時、隠遁した徳島の伊賀町の自宅の土間で死亡していた。夜中に水を飲みに台所の土間におりたち転んで頭をうったのが死因で、糞尿にまみれていた、と岡村はいう。
 日本人は、日本在住が長かったモラエスにサウダーデという言葉を冠するのが好きだが、異国に半世紀も暮らす私は、それは外国に住んだことのない日本人の情緒。サウダーデなどという生易しいもので外国暮らしはできないと考えている。
 そういえば新田次郎の『アラスカ物語』で、日本人一世の主人公が死に際に故郷の山々をまぶたに思い浮かべるラストシーンがあるが、読み終わって「甘い」と私は思ったものだ。
 物語にはずいぶん引き込まれていただけに、最後で打っちゃりを食ったように感じたのだ。これは書き手の日本人としての感傷。
 サウダーデが奥深く沈殿し、濾過されたあとにくる清澄な安寧感とでもいえばいいのだろうか。それがなければ永住はおぼつかない。この境地は旅行者や一時滞在者では無理だろう。
 私は再び幻想のバイアの地をさまよう。夜、水を飲みに立ち、足元がふらついて竈のカドに頭をぶっつけたとしよう。あるいは、かの地には毒蛇も多いはずだから、炎暑をさけて家内に入ってきた毒蛇にかまれて絶命するとしよう。土間にたおれるとき、去来するのはサウダーデだろうか。
 いや、道を歩きながらモラエスが漏らした苦笑を私も漏らすのではないか。ありのままを受け入れてこうなったという是認の笑いを。モラエスの研究者たちはモラエスとサウダーデを安易に結びつけすぎるのではないか。
 今はモラエスが漏らした苦笑が私に棲みついている。
 いずれにしろ、徳島で暮らしたモラエスの精神のありようを語れるのは、移民として生きてきた私たちしかないという気負いが、モラエスを胸に抱えさせるのである。(終わり)

写真=モラエスの生家の戸口にかかっているプラケート