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水野龍60年忌特別連載=大和民草を赤土に植えた男=第2回=19歳の原点、自由民権運動=あまりに過激な演説で禁獄

ニッケイ新聞 2011年8月11日付け

 「ここに座って、だまって周りを見てみなさい」——初対面の住職は唐突にそう言い放ち、本堂の真ん中を指差した。龍三郎は何がなんだか分からぬまま、言われたとおりにした。
 09年8月に水野龍生誕百五十年記念事業が高知県佐川町で行なわれた際に主催者から招待され、初めて父の郷里に足を踏み入れた時のことだ。シンポジウムに参加し、町関係者から水野龍に縁のある場所をいくつか案内された一つが名刹「乗台寺」だった。
 そこで住職は、目の前の人物が水野龍の息子だと紹介されると、いきなりそう言ったのだった。
 ちょっとした沈黙の後、住職は「どうだ。何が見える?」と静かに尋ね、あっけにとられたままの龍三郎をみて、ようやく説明を始めた。
 「お父さんが120数年前に見たものと同じものを、あんたは今見ているんだ。この光景は、あの当時とクギ一本変っていない」と言われ、龍三郎は頭を殴られたようなショックを感じた。日本人の歴史観が言葉ではなく身体に染み込んできた。
 1878(明治11)年、水野龍は19歳の時、この寺に住民が集まっている前で、自由民権思想を説く過激な演説をして警察に捕まり、40日間も牢屋に入れられた。
 この出来事が、若き水野の人生のその後を大きく変えた出発点に違いない。高知県には「名園」と呼ばれる日本庭園を持つ名刹が三つあり、その一つが乗台寺で、佐川町では最も古い約600年の歴史を誇る。
 龍三郎の記憶では09年の時点で「125年前の出来事だ」と言われたというので、水野龍が25歳の時(1884)年かと考えた。しかし、本紙が佐川町の歴史文書館「青山(せいざん)文庫」に問い合わせたところ、1878年(19歳)が事件の正確な年月日だと分かった。
 「青山文庫」によれば、1919(大正8)年発行の『佐川町誌』に次の記述を見つけた。原文は旧仮名使いだが現代文に書き替えた。いわく「12月22日に政談演会を乗台寺で開催する。弁士水野龍の演説論旨は治安妨害となるとして中止を命ぜられ、また同夜須崎警察署に拘引されて縲紲の身となり、遂に禁獄40日に処せられ、鉄窓の中で呻吟した」とある。
 19歳の若者の演説が〃治安妨害〃になると警察に中止させられ、禁獄40日間を食らい、町史に名を残した。よほど過激だったに違いない。
 どんな演説をしたのかを想像する上で、水野龍が10代の人格形成期をおくった時代背景には、当時最高潮を迎えていた自由民権運動があることを抜きにはできない。日本史上最後にして最大の士族の内乱である西南の役の翌年であり、しかも場所は自由民権運動の根拠地である高知県。その運動の旗頭であった板垣退助、後藤象二郎らの影響が最も強い地域だ。
 征韓論を主張した板垣退助や西郷隆盛らが、欧米視察から帰国した岩倉具視ら慎重論者に破れ、1873(明治6)年に下野した。板垣は後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らと愛国公党を結成し、翌1874(明治7)年に憲法の制定、議会の開設などの要求を掲げた「民撰議院設立建白書」を提出し、ここから自由民権運動は始まった。
 この時、水野龍は15歳であり、胸躍らせながら郷里の大先輩である板垣退助、後藤象二郎らが中央で大暴れする後姿をみて青雲の志を抱き、自由民権運動の闘士に育っていったに違いない。
 建白書を提出した直後に江藤新平が佐賀の乱(士族反乱)を起こして死刑になったように、自由民権運動は政府に反感を持つ士族階級に支持され、西郷隆盛を担ぎ上げた西南の役(1877年)まで続く武力闘争と紙一重の関係にあった運動だったといわれる。
 西南の役の時、水野は多感な18歳だった。青春時代を閑静な高岡郡北原村の小学校教員として過ごしていた。おそらくこの禁獄事件を契機として上京し、次なる人生の段階を切り開いていった。(つづく、深沢正雪記者、敬称略)

写真=水野龍が過激な演説をして警察に捕まった乗台寺(佐川町サイトwww.town.sakawa.kochi.jp/bunka_kanko/rekisi.html)、庭園は高知県の指定文化財になっている(上)/坂本龍馬、中岡慎太郎、武市瑞山らの維新関係資料をはじめ、土佐藩筆頭家老・深尾家の資料などが展示されている博物館「青山文庫」(同佐川町サイト)