ニッケイ新聞 2011年9月9日付け
「百人いれば百通りの移民史がある」。イグアス移住地の多様性をそう説明するのは、園田八郎さん(やつろう、61、鹿児島)だ。ブラジル日本都道府県人会連合会の園田昭憲会長の実弟に当り、移住地で大豆栽培をするほか、ペンソン園田も経営しており、南米を放浪するバックパッカーの定宿として有名だ。
八郎さんは1962年5月にピラボ移住地に入り、その後イグアスに移った。72年からJICAに就職し、38年間も移住地発展の裏方として尽力してきており、事情に詳しい。
戦後のパ国3大直轄移住地といえばラパス(約110家族)、ピラポ(約230家族)、イグアス(約200家族)だ。全日系人口は7700人で、首都アスンシオンにはその3分の1が集まっており、残りはエンカルナシオン、チャべス、アマンバイなどいくつかに分散しているという。
戦後移住地の特徴はその大半が、ブラジルのパラナ州、ウルグアイ、アルゼンチンにかけての国境付近を流れるパラナ川から50キロ圏内に位置することだ。
ブラジルにおいては1930年代から北パラナが最後の沃土テーラ・ロッシャだと騒がれ、終戦直後から「パラナ、パラナと草木もなびく」と謡われるほどの入植ラッシュを迎えた。そのパラナ川を挟んで対岸に広がるパラグアイ側のテーラ・ロッシャに戦後の日系移住地が建設されたわけだ。
草分けの坂本邦雄さんは著書『パラグアイに根差して七十五年』(2010年、日系ジャーナル刊、アスンシオン市)の中で、「今になっては、良くもあれだけのテーラ・ロッシャの絶好な立地条件のピラポやイグアスの豊穣な大型入植地を日本当局は選んだものだと思う」(77頁)と書いている。パラグアイの法律により3分の1は現地人に分譲したが、約5万ヘクタールは日本人・日系人が所有する。
八郎さんは、「パラグアイには全部で1万2千人以上の日本人が移住している。本来なら今は日系人口が4万人ぐらいに増えていていいのに、7千人にしかならないのは、半分近くが日本に引き揚げたから」と分析する。ブラジルでも戦後移住者の半分は帰国したと言われており、興味深いことに定着率はほぼ同じだ。
日本人会の平野揚三事務局長(ようぞう、49、二世)は、「最初の頃の移住者は永住志向ではなくデカセギ気分が半分で、いつか日本に帰ろうと思っている人が多かった」と考えている。だから半分が引き揚げた。「ここに残ったのは経済的な理由で帰れなかった人が多い。経済的に余裕のあった人やここに慣れられなかった人は日本に帰った」とし、「今成功している人はここで踏ん張って頑張りぬいた人です」と胸を張る。
イグアスが1961年に最後の移住地開設となったのは、日本で60年代半ばから高度経済成長が始まったからだ。当初は2千家族を受けいれる構想だったが、日本からは年間15家族程度が入っただけだった。
加えて、花卉栽培や洗濯業が安定していたアルゼンチンへ60年代に転住した人もかなりいるという。ブラジルへの転住組は「極めて少ない」という。船で渡航したパ国移住者が最初に降りるのがブエノスアイレスで、言葉もスペイン語であり身近に感じるようだ。最初に踏んだ土地にある種の「心理的刷り込み効果」が働くのだろう。
ボリビアに入った戦後移民はサントスで下りてノロエステ線に乗って陸路ボリビアに入り、その後、ブラジルへの転住組がかなりいるのとは対照的ともいえそうだ。(つづく、深沢正雪記者)
写真=鹿児島弁の名前を持つ園田八郎(やつろう)さん。自らが手塩にかけて集めた同移住地移民資料館(イグアス日本「匠」センター内)で
パラグアイの新観光名所
日本の円借款200億円で作られたというイグアス国際空港の新観光名物は、昨年米国マイアミから物資を積んで飛来したジャンボ機(=写真)だ。連邦警察に書類不備を指摘されたが、所有者が現われず、そのまま〃海賊機〃として1年間も駐機しているとか。
貨物専用とはいえ大型機であり、高価なのは間違いない。いったいどんな人物が所有し、何を運び、どんな事情で放棄したものか。そのまま国際サスペンス小説の一描写のような光景だ。
鹿児島県人会の移住地入植50周年慶祝団一行は、その飛行機の前で記念写真を撮った。このような飛行機がどんどん米国から運んできた物資や、ブラジルから運び込まれた免税工業製品が、国境の町エステ市を発展させている。