ニッケイ新聞 2011年10月4日付け
サンパウロ市内には、日本やイタリア、ポルトガル、スペインなど、多様な国籍を持つ移民やその子孫が根付き、新しい居住地を作り上げ、街の歴史に欠かせない存在となったが、ここ20年間は東洋人やアンデス人、アフリカ人たちが同市に根付こうと闘っていると10月2日付エスタード紙が報じている。
1800年代に移民として来た人々は、言語の違いや周辺からの差別などといった困難にも関わらず、地域の発展に貢献しただけでなく、方言や外見、習慣から食卓に至るまで、パウリスターノ(サンパウロ市民)と呼ばれる集団の形成に影響を与えた。
しかし、イタリア人のガエタノ・ペッジ氏が1882年1月17日に初回移民者として登録されてから129年後の今、サンパウロ市内には、東洋人やアフリカ人、ラテンアメリカ人などといった新たな移住者たちが入り込んでいる。
ここ20年間増えてきたのは、ホング、キム、ヤン、ヴィラール、オグンメなどといった苗字を持つ人々で、約60万人が新たにサンパウロ市民の一部になるために、苦闘を重ねている。
「現在の状況は、初期の移民が到着した19世紀とまったく同じ現象の繰り返し」とサンパウロ総合大学(USP)で移民について調査を行っているマリア・ルス・アマラル・デ・サンパイオ教授は述べている。
「当時、イタリア人が泥棒呼ばわりされていたのと同様、新しい移民に対しても同じ差別が繰り返されている。また、既に三世代目となっている韓国移民でさえ、同民族内でのみ結婚している」と同教授は説明。これらのグループは、サンパウロ市民の中に順応、同化し切れておらず、従来からの市民層もこれらのグループへの対処法を習得中だと話している。
ポルトガル語を十分に話せないのにセントロに店を構え、東部タトゥアペ区などの高級住宅を手に入れる中国人や、ブラス区で洋服店を営むボリビア人、医者や歯医者の免許を持つアンゴラ人やナイジェリア人など、これら新たな移民が徐々に大都市の顔を変えていっている。