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【祝 福博村入植80周年】戦後移住者が主役=より集約的で合理的経営

ニッケイ新聞 2011年10月22日付け

 福博村の経済を大きく支えているのは、すべて戦後移民(子ども移民を含む)で、 井野一彦、高木政親、渡邊勇、林幸美、田辺治喜さんの5人が村の各業界大手の大黒柱だ。皆がそれぞれの分野で先進的な技術を持って、単位面積当たり高い収益を上げる集約的な経営を行っており、技術に改良を加えながら時代を先取りしている。村生まれの生え抜き二世も少ないながら育っており、頑張っているのが注目される。

卵生産52万個/日=井野養鶏場 兄弟で経営

 井野一彦社長(69歳)は、弟の槐二(かいじ)さんと井野養鶏場を経営、成鶏を約70万羽飼育して日産52万個の卵を生産している。
 一彦さんは1942年10月6日に茨城県小川町(現小美玉市)に生まれ、1960年4月、17歳の時にオランダ船『ルイス号』で父吉蔵、母小春、弟槐二、妹明海さん5人で渡伯した。小学校6年の国語の作文で「夢は外国に住むこと」と書き、中学1年の時には「俺は日本にはいない」と決意を述べた。アメリカ映画を見て、「白黒」の区別がはっきりしている欧米文化にあこがれた。水戸商業高校卒の父は「パチンコ屋」を経営して生計を立てていた。尊敬する社会科の先生が「社会に不要なもの」とパチンコ屋を暗に批判したことも、海外移住への思いに拍車をかけた。
 県移住課はグアタパラ移住地への移住を勧めたが、雑誌『ラテンアメリカ』の文通希望欄に掲載された福博村在住の山本周助さん(千葉県出身)と文通を始め、福博村へ移住する決意が固まった。山本さんの隣で兼業養鶏をしていた吉川武夫さんから〝居抜き〟で農業施設を買い、養鶏と野菜作りを始めた。1963年には、一彦さんが「我々きょうだいは戦後の貧しかった時代、卵をお湯で溶き、砂糖を混ぜて飲んで育った」と父に言い、「感謝の気持ちもあり、社会的意義のある専業養鶏をやろう」と家族を説得した。
 廃鶏を取り除く仕事以外は、卵の回収、給餌、掃除などすべて機械化、自動化された鶏舎を建てるとき、生産部門を担当してきた弟の槐二さんに「投下資本の回収に何年もかかる」と反対された。一彦さんは「人間が働かなくても機械が働いてくれ、時間さえたてば投資した分は回収できる」と強行に機械化を進めた。
 2006年に汎スザノ文化体育農事協会(ACEAS)が、ブラジル公認の全日制学校『セニブラス校』を造った時、自分の土地を売って多額の寄付をした。昔の福博村会の定款を見て、「政治がやらないなら、自分たちがやる」という気概、福博村建設の精神に共感したという。
 日本人の養鶏家は次々とつぶれていったが、中国人はつぶれていない。中国人の鶏舎内の通路は土のままで、原料は安く買いたたく。それが中国式商売だという。一彦さんには、それができない。「日本を背負っている」という気分があるから、相手の立場を考えてしまい買いたたきができない。情ある商売しかできないが、「情」ある商売こそ共産主義と資本主義を両立させ止揚するものであり、そこに人類が生き残れる「第3の道」があると信じている。
 子どものころ「金を出して買った新聞紙は読んだ後、八つに折って切り習字の練習をし、束ねてひもで結び便所につるしておけば、3回使える」と教えられた。物を大切にし、合理的に考える精神は3男1女の子どもたち、エドワルド邦彦、シルビア美香、アンドレ雄司、ファービオ慶三さんたちにも確実に伝わっている。