ニッケイ新聞 2011年10月22日付け
田辺治喜さん(63歳)は1948年5月22日、福岡県田川市で父直助、母スミさんの間に生まれた。14歳の時、父母、叔父夫婦と5人でブラジルに移住、1962年6月17日にサントスに着いた。
炭鉱離職が増える中で父が務めていた三井田川鉱業所の経営が悪化したこと、父が満州にいたことでブラジル移住を決意した。アメリカ軍によるビキニ環礁での水爆実験(1954年3月1日)で被爆した第五福竜丸の事件も、米ソ冷戦の狭間にある日本に見切りをつけて移住してくる背景になった。
アラサツーバで親せき2家族が野菜を作っており、街で写真屋を開きたいというので日本から持って来た器具一式を渡して、その農園を引き継ぎアルファッセ、キュウリ、トマトを作りフェイラ(青空市)で直売した。
渡伯から4年8カ月後の1967年、ジュキチーバのマナカ植民地に日本人から土地を買って8カ月いた。地権がなく、だまされたことが分かり、8カ月後の1968年、叔父夫婦と別れて、無一文で福博村に入植、同じ福岡県人のオオクマさんを頼り借地農となった。どん底の生活で米はキレーラ(くず米)を食べていた。露地栽培で菊を作りはじめると、よく出来て一息つくことができた。
アラサツーバで小学校4年と中学校2年まで修了、1972年にカンピーナス市にある州立ウニカンピ大学機械工学科に入った。3年生ごろから錦鯉を飼い始め、そのころ錦鯉では唯一であったアチバイアの古久保佐武郎さんにいろいろと教えてもらった。
1976年7月、卒業式(木)、就職(金)、結婚式(土)を3日続けて行った。日本からの進出企業・機械保全課に入って8年間勤務した。営業が注文を取ってくると、土日の夜中でも機械保全のため出勤しなければならないほど忙しく、家は寝るだけで、妻と話す暇もなかった。仕事で日本に旅行している時、部下が事故死した。日本からの出張社員に代わりの責任者を務めてもらっていたが、現地採用の人に責任を負わせるべく始末書を作成するように命令された。また前任の社長が5%昇給の稟議書を回したが、日本から後任社長が来ることが決まると昇給は取り消された。
進出企業に嫌気が差していたころ、1984年、太っ腹で気前の良いコンチネンタル蒸気アイロン製作所の尾上久一社長が、マイリポラン市で錦鯉の子取りをしていた池(施設)をくれることになり、本格的に錦鯉を飼うことになった。以後27年間、養鯉業に就き業界トップの座にある。
1男3女4人の子どもは皆、大学を出した。息子の直喜さん(ブラジル錦鯉愛好会会長)はミナス国立大学で獣医の資格を取り直している。鯉の輸入の時に許可書を作成する必要があるからだ。給料取りから養鯉業者になって「楽しみながら仕事ができる」、「宮仕えではなく、一国一城の主としてプライドが保てる」、「妻とも会話ができる」と生活は改善した。
親鯉を飼育して、その稚魚を3家族にただで出荷し、将来性のある鯉を買い戻す。下請け制度のようなものだが、「下請けに利益が在って、はじめて自分も成り立つ」と考えている。子の系統が分かるという意味で、親鯉を持っている者の強みもあるが、常に勉強して目を肥やす必要がある。その意味で、日本へ行くたびに「自分が大きくなるような気がする」と語る。
今年行われた第30回ブラジル錦鯉大会で総合優勝した直喜さんの紅白は、非日系人に1万レアルで売れた。コストを考えると決して高くはないという。農村用電気代だけで月に2千レアルもかかる。従業員が「サウ(塩)とカウ(石灰)」を聞き間違えて、10分間で1池全滅させたこともあり、苦労は絶えない。