ニッケイ新聞 2011年10月22日付け
「祖父(石橋初雄)が日本から持ち帰ったモミジなどの植木を、父(石橋聖哉=1929〜2008)が大事に育てた。その木を私(石橋ジョン一也)の代で枯らすわけにはいかない。私の代は大丈夫です」と、一也さんは祖父父子3代相伝の家業継承を宣言する。
石橋初雄さんは1903年熊本県下益城郡(しもましきぐん)生まれ、1929年にブラジルに移住、モジアナ線モーロアズールに配耕された。1931年にアラサツーバのサンタクララ農場でカマラーダ(臨時雇い)をした後、1945年に福博村にトマト作りのため入植した。
パウリスタ新聞の蛭田徳弥社長がアルゼンチンから持ち帰ったグラジオラスを、同村の寺尾元行さんが育て、初雄さんが大規模に栽培し適性品種を固定、栽培法を秘匿、独占せずに全ブラジルに普及した。グラジオラスに球根が腐る病気が出てブームが終わると、日本から持って来たクルメツツジの栽培を始め、これも全伯に広がった。俳句、短歌をたしなみ「初穂」の雅号で知られた。山本喜誉司賞受賞、勳五等瑞宝章受章。
聖哉さんは福博村会会長、サンパウロ花卉生産者協会会長、スザノ農村協会会長を40年間務め、家業では販売を担当した。1945、6年ごろ実施された福博村の実態調査で、青年の多くが将来は「メカニコ」(機械技師)になりたいと答える中、聖哉さんは「花卉園芸」と答え、調査した大浦文雄さん(村会顧問)が感心したというエピソードがある。聖哉さんの時代にはカーネーション、バラを大きく栽培していた。父(聖哉さん)が社会貢献できたのは「私がいたからです」と、一也さんが裏で支えていたことを明かす。
その一也さんは福博村会剣道部で、聖哉さんの末弟で7段の石橋弘善さんに勧められて10年間剣道を学んだ。谷口又夫師範に「段を取ってから止めろ」と言われるまでに上達したが、昇段することなく、やめてしまった。ガイジン(非日系ブラジル人)から「上手い」とほめられるほど優れたサッカー技術を持ち、サッカーの方が好きだったと言う。
子どものころから植木、庭木が大好きで、ピラシカバ大学に入った。「庭木は1日にして成るものではない。苗を採るのに30年、40年とかかる。植木栽培は継続する仕事で、祖父の代に植えてくれたものを守り伝えていくのが私の役目です」と植木庭木栽培を一生の仕事に選んだ。ツツジ、ツバキ、シャクナゲ、モミジ、ヒバ、カイズカ、サクラ、イチョウなどの苗木を福博村で育て、バルエル区で成木を育成している。
「昔は植木をトラックに積み、午前1時半に出てセアザに行った」。売れなければまたトラックに積みなおして帰ってくる。そんな生活を30年間続けた。現在は、スーパー、ガーデン、インターネット販売と市場が多様化している。売れ行きに波のある植木商売では、従業員に給料を払うことが苦しい、と言う。