「毎朝のように9時頃、特攻隊の飛行機が南洋に向かって飛んでいく。屋根に登って、オヤジと一緒に手を振ってそれを見送るのが日課でした」。レジストロ百周年実行委員長の山村敏明さん(72、鹿児島)は、数少ない故郷での幼少期の思い出をそう振り返る。
山村家は1944年末に満洲を引揚げ、知覧市の南50キロにある加世田市の父の実家に住んでいた。昨年60周年を迎えた戦後移民の特徴の一つは、大陸育ちや戦争経験者が多いことだ。満州引揚者が終戦後、大挙して日本に流れ込んだが、そこに居場所を定める気にならず、そのまま南米まで来た。その一人が山村敏明の実父、明造(めいぞう)だ。
敏明は1941年5月に満州国の首都新京で生まれた。30年代に父が畳職人として移住したが、息子の一人が病気に罹り、手術をする必要があって44年末に帰国していた。福岡で下船し、鹿児島本線で帰郷した。終戦時、敏明はまだ4歳。弟が病気にならず、新京で終戦を迎えていれば、当時多くの子供がそうであったように、敏明も引揚げのドタバタでまったく別の人生を迎えたかもしれない。
「一晩中、空が真っ赤になっていたことがある。後で聞いたら、鹿児島が空襲を受けたときだった。トイレもない防空壕の隙間から空が燃えているみたいに見えた。すごい光景だった」。幼少期の思い出の大半は戦争に直結している。「ほかのことは覚えていない」。幼くしてあまりに強烈な体験をしてしまった。
終戦後の故郷での生活はひもじく、明造は新疆での豊かな生活を繰り返し思い出しては「大陸でもう一度」という気持ちを強めていたようだ。「満州暮らしに慣れ、日本に将来を感じず、食べ物もない毎日…。『このままでは日本人同士が共倒れになる。それなら自分たちは南米に行こう』。そう父は考え、1951年にはブラジル行きを決断しました」。
51年9月にサンフランシスコで講和条約が結ばれ、日本はようやく独立を回復した。でも、戦後移住が開始するのは1953年。イビウナに戦前移住していた遠い親戚を頼って、両親と敏明ら5人兄弟を呼び寄せてもらった。53年12月30日にアフリカ丸で出航し、翌54年2月16日にサントスに到着した。「当時、渡航費は自分持ちだったから、オヤジは家を売った」。そういう覚悟だった。のちにコチア青年としてもう一人の兄も渡伯した。
イビウナの親戚に半年間ほど世話になっていた時、父はレジストロではゴザができると聞き、「それなら畳も作れる!」と膝を叩いた。〃新京時代〃をもう一度――と畳を作る道具一式を携えてきていた。敏明は「レジストロは沖縄と同じ気候だから、沖縄移民が琉球オモテを作るために、琉球イグサを持ち込み、戦前からゴザやイグサを作っていた。あれはレジストロでないと成長できず、普通のイグサより強い。十分に畳の材料にもなることが分かった」と説明する。
山村は「当時コロニアには畳職人は何人もいたが、昭和初期に日本では機械で畳を作るのが一般化していたから、ほとんどの人は畳を一から作る方法を知らなった。その点、オヤジは叩き上げで、機械が普及する前から職人だったからトコ台を手で一から作れた。あちこちの柔道場とか、青柳などの料亭や割烹からお座敷用の注文を受けて1956年から作り始めた」と思い出す。
当時、ラ米唯一とも言われた本格的な畳工場だった。家族が力を合わせて、1959年にサンパウロ市ラッパ区に店を出し、レジストロで台を作り、ラッパで仕上げる形で60年代から本格的に生産を開始した。山村の前からスザノなどの集団地で生産している人はいたが、本格的に大量生産を始めたのは彼だろう。
70、80年代には年産1万2千畳を数え、社員を30人も雇い、ピニェイロスにも支店を開いていた。「90年代から中国製畳が輸入され、半値近くで売られるようになって、一気にダメになった」と振り返る。今ではもう生産していないという。(つづく、深沢正雪記者)