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第6回=亜国=終戦5カ月前まで日語報道=最終ニュース「慶良間侵攻」

ニッケイ新聞 2011年12月2日付け

 亜国からは今回、最多の200人が参加した。大会取材3回目の『らぷらた報知』編集の崎原朝一さん(77、沖縄)は、「僕自身もう今回が最期かもしれないと思っている。一世はみな、そんな想いがあるから子や孫を連れてきた。だからこんなに人数が増えたんだと思います」と分析する。
 最初の移民集団は笠戸丸移民であり、その意味でブラジルとは兄弟のような関係だ。亜国日系社会は3万人、うち沖縄県系は7割以上だという。首都ブエノスアイレスで一番立派な日系会館は、在亜沖縄連合会(通称沖連)のそれだという。
 「アルゼンチンと日本が正式な移住協定を結んだのは、実は1961年。その直ぐ後に日本の高度経済成長が始まる。つまり、アルゼンチンに直接入った人は少なく、戦前はブラジル、戦後はパラグアイ、ボリビアからの転住者が多いという特徴がある」と要約する。
 ブラジルでは戦前、大半がコロノ(農業契約労働者)として生活を始めた。ところが亜国では転住者が多く、ブエノスアイレスなどの大都市で工場労働者、バールや洗濯屋などの自営業者が多かった。戦後、ミッソンイスでは開拓があったが、例外的だという。
 ブラジルでは終戦後に勝ち負け抗争が起きたが、亜国では起きなかった。亜国は南米では一番最期まで中立を保ち、3邦字紙が発行禁止にされたのは1945年3月末で、それまで日本の戦況が刻々と伝えられていた。
 戦争の関係で、日本の報道機関の特派員は北米にはおらず、ブラジルが連合国側にたった1942年以降、アルゼンチンに特派員が集中していた。ドイツ移民、イタリア移民が多い国柄もあって欧州の貴重な情報はもちろん、欧米の動向に関するニュースもここから発信されていた。そのような特派員から直接、戦況を聞くことあっただろう。
 『アルゼンチン日本人移民史』(06年、在亜日系団体連合会)の編集委員長も務めた崎原さんは「『南亜日報』の最期の新聞は3月28日付けで、米軍が慶良間諸島を攻撃し、沖縄侵攻が始まったというものでした」と説明する。
 ところが、政府が許可した最後の日付の新聞は3月27日付けだった。「米軍の慶良間攻略を報じた新聞はひそかに印刷だけして、社員が手分けして秘密裏に配達した」という〃幻の28日付け〃だった。大勢を占める沖縄県系人にとっては「慶良間諸島まで来た」というニュース自体が衝撃的で、その後の展開は予想できるものだった。
 それに「みな都会生活しているから、勝っていると信じたいが、実情も肌感覚でわかっていた。だから集団での勝ち組は生れなかった」と崎原さんはみている。
 「戦場となり、占領された郷里を持つ沖縄県人はかえる場所を失い、家族の消息も不明になり、絶望のふちに追いやられた」。戦後徐々に手紙が届くようになり、状況が分かるようになる。「沖縄県人有志は自らの報道機関を求め、1948年に株式会社の新聞社を立ち上げた。永住の気持ちが広がっていた」という経緯から『らぷらた報知』は創刊された。
 『亜国日報』が91年に幕を閉じて以降、『らぷらた報知』は同国唯一の邦字紙として週3回の発行を続ける。『亜国日報』が廃刊した直接の原因は、記者が居なくなったことでも、読者が居なくなったことでもなかった。「植字工がデカセギにいってしまい、代わりが居なかった」ことだった。南米に共通したデカセギブーム当時を髣髴とさせる逸話だ。
 同国コロニアの7割を占める県系読者をしっかりつかんだ新聞が生き残り、「沖縄系に偏らない日系社会ニュース」を社の方針としているという。(深沢正雪記者、つづく)

写真=慶良間攻略を伝える幻の『南亜日報』3月28日付け(アルゼンチン日本人移民史、戦後編、13頁)