ニッケイ新聞 2011年12月21日付け
「リベルダーデは変った」。そう感慨深げに語るのは、半世紀の歴史を持つガルボン・ブエノ薬局(ガルボン街203番)の代表、新井桧垣静枝さん(75、二世)だ。生粋のリベルダーデ生まれであり、戦争中のコンデ街の立ち退きを経験し、シネ・ニテロイ創立によって日系商店街となり、メトロの開通、高速道路建設工事に伴う立ち退き、この10年余りの中国・韓国系店舗の増加と、めまぐるしく変貌を遂げる東洋街を見てきた。半世紀に渡って薬を提供してきたが、本日21日をもって東洋街で日系最古の薬局の一つは幕を閉じる。
桧垣家は戦前にコンデ・デ・ピニャール街で「旭日ホテル」を経営していた。静枝さんはそこで生まれ、日系学校コレジオ・サンフランシスコ幼稚部に戦前通っていた。生粋の〃リベルダーデっ子〃として、この街の盛衰を見守ってきた。
「ホテルには地方から病気の治療で出聖されるお客さんも多く、私も通訳を兼ねてお医者さんに連れて行ったりしてました。ママイもお客さんから頼まれてペニシリンを昼夜打ってあげたりしていた。もちろん正式な免許はありませんでしたが、お客さんの頼みですから。みんな病気には苦労していたので、私も少しでも役に立ちたいと思い、薬学部に進学したわけです」と振り返る。
42年にヴァルガス独裁政権は、敵性国民である日本移民にコンデ街からの強制立ち退きを命じた。すぐ近くにあった同ホテルも強制移動させられたが、戦後再び戻ってペンソンを営んでいた。
シネ・ニテロイが建設されるとの話を聞き、作業員向けに向かいにバールを開いた。「あの頃、日本人はまだ少なかった。手打ちうどんも出していましたが、ママイが毎日一足分のペルニウを作ってサンドイッチにして売っていたのが、美味しいって評判になりました」という。53年に同映画館が開所すると、地方からも観客が集まるので、バールを拡張してレストランを開いた。
静江さんは60年にUSP薬学部を卒業、「一クラス25人のうち半分以上は日系だった」という。この界隈で日系薬局はコンセリェイロ・フルタード街だけだったので、ガルボン街に開店した。5年ほど後に親族がバンビ薬局を開店、妹はバザール、伯父が写真店を開き、60年代のガルボン街は「ファミリアの店だらけだった」と笑う。〃日本人街〃と呼ばれた最盛期の一端を、家族で支えた。
その間、州立印刷所建設、68年のラジアル建設、72年のメトロ建設開始を含めて計3回もガルボン街内で立ち退きさせられたが、めげずに経営してきた。だが、近年は大型薬局チェーンの安売り競争が激化し、「以前は『薬のことならガルボン薬局へ』とコロニアで頼りにされたが、今は心細い時代になった。薬は安売りするものじゃない」と閉店を決意した。
「韓国人、中国人がこんなに堂々と方々に店を構える日がくるとは思わなかった」としみじみ語った。「今までありがとうございました。今後はバンビ薬局(同街395番)の方をよろしく」と感謝の言葉を繰り返した。寂しい年の瀬になったようだ。